アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ
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アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ( Angel Alcazar de Velasco、1909年 - 2001年)は、スペインジャーナリストスパイ

第二次世界大戦下において、ナチス・ドイツ大日本帝国のスパイとして活動した事で知られている。
生涯
前半生

1909年にグアダラハラ県にある、ヘッセン方伯フィリップ1世の末裔にあたる貧しい農家に生まれる。

家計を支えるべく、12歳でマドリードトレド闘牛士見習いとして働き始め、20歳頃にはマドリードでも著名な闘牛士となった。

1932年にサラマンカ大学で哲学の学位を取得し、卒業後は「ラ・ナシオン」紙の記者となった。翌1933年には、ファランヘ党の創立メンバーとなり、党機関紙の記者としての活動も開始した。1934年に起きたアストゥリアス革命(英語版、スペイン語版)の取材に際しては、ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ党首から勲章を授与されている。

筋金入りの右翼急進主義者かつ反ユダヤ主義者だったベラスコは、スペイン国内で活動するナチ党ないし アプヴェーア(ドイツ国防軍情報部)の上層部から知己を得るに至った。1935年の第二次エチオピア戦争勃発に伴い、戦時特派員としてエチオピアへ渡った際は、その情報収集力の高さがヴィルヘルム・カナリス情報部長の目に留まり、ドイツ本国で秘密諜報員としての教育を受ける事となった。
スペイン内戦下

帰国後は、ファランヘ党のヒットマンとしても活動していた事から、内戦の勃発に際して、共和国に対する反逆者と見なされ、ビルバオの刑務所に投獄される事となった。しかし、移送時に看守の隙を見て脱獄し、ナショナリスト派(英語版、スペイン語版)の占領区域にまで逃げ込み、1936年7月18日の反乱軍による蜂起にも馳せ参じる事となった。

だが、1937年4月にフランシスコ・フランコがファランヘ党と複数の保守系反共和国団体との合同を強行するなど、これまでの党の性格を否定し、自身の統制下に置く方針を採った。この事に党の古参指導部は強く反発し、ベラスコ自身も2回に亘って、フランコの暗殺を計画したものの、全て失敗に終わった。これによって、ベラスコは争乱へ参加した容疑で逮捕され、「軍事的反乱」を試みた罪状により、裁判で終身刑を宣告された。

刑が確定した後は、複数の刑務所をたらい回しにされ、最終的にパンプローナのサン・クリストバル砦(英語版、スペイン語版)へ収監される事となった。そこでベラスコは、内戦における共和国派の囚人による大規模な脱獄に巻き込まれた事から、騒ぎに乗じてパンプローナの市街地まで脱出し、ナショナリスト派側の当局に一連の経緯を告発する事に成功した。この功績によって、ベラスコの刑期は僅か2年に短縮される事となった。
第二次世界大戦下
アプヴェーアにおける活動

1940年1月には、当時のラモン・セラーノ・スニェール(スペイン語版)内務大臣と懇意にしていた事から、マドリードにある政治学研究所の報道担当官に任ぜられた。ベラスコの役割は、パートナーであるミゲル・ピエルナヴィエハ・デル・ポゾ[1]がドイツへの報告書の打電を行う一方で、スペイン国内にスパイ網を構築する事だった。この任務における主たる目的は、イギリス大使館の職員から、イギリス船の動向に関する情報を入手し、最終的にはジブラルタルの岩爆破する事だった。作戦実行の可否を判断するにあたって、同年7月にアプヴェーアからカナリス部長自らがスペインを訪れたが、フランコ政権は参戦に渋りがちであると判断した事[2]もあって、作戦は立ち消えに終わる事となった。

また、アプヴェーアのスパイとして渡英する事を謀るべく、イギリスの駐スペイン大使であるサミュエル・ホーア(英語版)との会談の場において、自身を反フランコ主義のラジカルなファランジストであると売り込んだ。反フランコの盟友を得たと判断したホーアは、駐英スペイン大使館の報道担当官に就任する為には、イギリス外務省アグレマンが欲しい、というベラスコの要望を受け入れた。

1940年秋に渡英し、カナリスのファーストネームをスペイン語読みにした「ギレルモ」のコードネームで、諜報活動に従事する事となった。赴任後は、反フランコの在英スペイン人ジャーナリストのほか、スコットランドやウェールズ(英語版)の分離主義者を取り込み、ザ・ブリッツによるロンドン市内の被害状況や、イギリス軍の編成に関する情報をドイツへ送っただけでなく、協力者達を反フランコのゲリラとして育成する事も目論んだ。しかしスペイン大使館は、適切な情報セキュリティ対策を講じていなかったため、前述したベラスコによるスパイ行為は、その大部分がMI5によって傍受される事となった。

1941年3月からは、国家保安本部第IV局(ゲシュタポ局)E部(防諜部)部長であるヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将の指揮下に入り、ポルトガルにおけるウィンザー公爵の誘拐を目的とした、ウィリー作戦(英語版)に携わる事となった。


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