アンブローズ・バーンサイド
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アンブローズ・エバレット・バーンサイド
Ambrose Everett Burnside
1824年5月23日-1881年9月13日(57歳没)
アンブローズ・E・バーンサイド将軍
渾名バーン
生誕インディアナ州リバティ
死没ロードアイランド州ブリストル
軍歴1847年-1865年
最終階級少将
指揮ポトマック軍
戦闘

米墨戦争南北戦争

第一次ブルランの戦い

バーンサイド・ノースカロライナ遠征

ロアノーク島の戦い

ニューバーンの戦い


メリーランド方面作戦

サウス山の戦い

アンティータムの戦い


フレデリックスバーグの戦い

ノックスビル方面作戦

オーバーランド方面作戦

荒野の戦い

スポットシルバニア・コートハウスの戦い

ノースアンナの戦い

コールドハーバーの戦い


ピーターズバーグ包囲戦

クレーターの戦い


除隊後ロードアイランド州知事アメリカ合衆国上院議員
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アンブローズ・エバレット・バーンサイド(: Ambrose Everett Burnside, 1824年5月23日 - 1881年9月13日)は、アメリカ合衆国軍人、鉄道会社役員、発明家、工業実業家、およびロードアイランド州の政治家であり、同州の知事と同州選出のアメリカ合衆国上院議員を務めた。南北戦争では北軍の将軍としてノースカロライナや東テネシーで作戦を指揮して成功したが、フレデリックスバーグの戦いクレーターの戦いでは惨めな敗北を喫した。バーンサイドの特徴ある顔ひげのスタイルは、その姓から「サイドバーンズ」と呼ばれている。
生い立ちと初期の経歴

バーンサイドはインディアナ州リバティで、エッジヒルとパメラ(あるいはパミラ)・ブラウンのバーンサイド夫妻の9人の子供のうち4番目の子として生まれた。バーンサイド家はスコットランドの出身だった[1]。父のエッジヒルはサウスカロライナ州の生まれで奴隷所有者だったが、インディアナ州に移転するときに奴隷を解放した。バーンサイドは少年の時にリバティ神学校に通ったが、1841年に母が死んだときに中断し、地元の洋服屋に徒弟奉公に出され、その後は洋服屋の共同経営者になった[2]。バーンサイドは軍事に興味を持ち、父の政治的な関係もあって、1843年陸軍士官学校への入学指名を得た。士官学校は1847年に卒業し、同期38人中の成績は18番目だった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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