アンフィポリス
[Wikipedia|▼Menu]

アンフィポリ
Αμφ?πολη

アンフィポリスの要塞
位置

アンフィポリスの位置
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}アンフィポリスアンフィポリス (ギリシャ)ギリシャの地図を表示アンフィポリスアンフィポリス (バルカン半島)バルカン半島の地図を表示アンフィポリスアンフィポリス (ヨーロッパ)ヨーロッパの地図を表示
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度49分 東経23度51分 / 北緯40.82度 東経23.85度 / 40.82; 23.85
行政
ギリシャ
 地方中央マケドニア
 セレス県
 町アンフィポリ
人口
人口(2001年現在)
  町域3,623人
その他
等時帯EET (UTC+2)
夏時間EEST (UTC+3)

アンフィポリス(古代ギリシア語: ?μφ?πολι?)は、古代ギリシア都市である。エーゲ海に流れるストリモナス川の、東岸の台地上に紀元前437年に建設され、8世紀頃に廃墟となった。現在のアンフィポリ(ギリシャ語:Αμφ?πολη)は、中央マケドニア地方のセレス県の町(デモス)であり、この地域がギリシャ王国領となった時に、古代都市アンフィポリスに因んで町の名称が付けられた。2001年の人口調査によると、人口は3,623人。
町の誕生アンフィポリスの市街地の変遷

考古学の検証によると、アンフィポリスの付近では紀元前3000年頃から人間が居住していたようである。戦略的な地形であったために、この地域は非常に早くから要塞化されていた。資源が豊富なトラキア地方は、パンゲオ山脈からが産出され、また海軍の建設に必要な木材も多く調達できる地域であり、ペルシアから見ても、アテナイから見ても非常に魅力的な土地であった。またトラキア地方は、スキタイからアテナイへ穀物が供給される海路上にあり、アテナイには特に重要な地域であった。

紀元前513年、ペルシア軍はトラキアの鉱山を掌握し、トラキア人たちに銀で税を納めるように強要した。紀元前480年にはペルシア王のクセルクセス1世が川の神への生け贄として、9人の青年と9人の処女を生き埋めにするよう強いた。紀元前480-479年にペルシアが敗退すると、アテナイがトラキアの鉱山を支配、管理しようした。紀元前465年、アテナイ軍はアンフィポリス近くのタソス島を降伏へと追い込み、紀元前436年にはとうとうアテナイがアンフィポリスのストリモナス川近くに町を建築し、資源豊かなトラキアを攻略する足掛かりとした。

紀元前497年にはミレトスの僭主ヒスティアイオスが初めて植民地を建設し、紀元前478年に結成されたアテナイを盟主とするデロス同盟が、トラキア地方の支配を盤石にしようとした。また紀元前465年にはアテナイがエンナ=ホドイ(「9本の道」という意味)の植民地を建設した。しかし、これらに住んでいた10,000人程の植民者たちは、トラキア人に虐殺される結果となった[1]ニキアス(en:Nicias)の子ハグノンが指導者であった紀元前437年に、2度目の植民地の建設が同じ場所で行われた。このときアンフィポリス(「町の周り」という意味)という名が付けられた。

この名称については辞書学において多くの議論がなされているが、ストリモナス川が町の2方向を、「町の周り」を囲むようにして流れていることから生まれた、とトゥキュディデスは説明している[2]。また、9世紀に編纂されたエティモロギクム・ゲヌイヌム(en:Etymologicum Genuinum)には、アンフィポリスについて、「アンフィポリスは、アテナイ人もしくはトラキア人の町であり、町がストリュモナス川に囲まれていたことから、かつては『9つの道』と呼ばれていた。」と記載しており、実際の町の位置と一致し、またトゥキュディデスの説とも重なっている。スーダ辞典フォティオスの辞書においては別の説が言及されており、ペリアンドロス(en:Periander)の息子マルシュアスによると、住民の大部分が「町の周り」に居住したことから生まれたようであるという説が記載されている。しかし、最も有力な説はユリオス・ポリュデウケスによって提唱されたもので、「町の周り」に地峡があることから生まれた、という説である。

その後アンフィポリスの住民のうち、アテナイ人はごく少数であったが[3]、アテナイのトラキア地方における重要拠点であることからペロポネソス戦争では必然的に支配する側であるアテナイの味方であった。ところがスパルタの将軍ブラシダスは、アテナイの強欲さや残忍さに多くのトラキア人たちが辟易しているのに目をつけ、これを利用することを思いつく。

紀元前424年の冬、重装歩兵1000人とヘイロタイ700人を率いたブラシダスはアンフィポリスに到着すると、戦うことなく平和裏に都市を奪いたいと城壁から通告。また、立ち去りたい住民は無条件で通行を許し、一方でスパルタに協力する者に危害は加えないことを約束した。アンフィポリスに住むトラキア人はむしろこの申し出に喜び、こうしてブラシダスは無血でアンフィポリスを占領した。

アテナイはブラシダスのアンフィポリスの進軍をまったく予期しておらず、知らせを聞いたアテナイが救援軍を派遣した頃には、ブラシダスは近隣の部族(トラキアの部族であるエドニア人とカルシディア人)と同盟を結んでいた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef