アンネ・フランク
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アンネ・フランク
Anne Frank
アンネ・フランク(1940年)
生誕アンネリース・マリー・フランク
(1929-06-12) 1929年6月12日
ドイツ国 フランクフルト・アム・マイン
死没 (1945-03-12) 1945年3月12日(15歳没)
ドイツ国 ベルゲン・ベルゼン強制収容所
家族.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

オットー・フランク(父)

エーディト・フランク(母)

マルゴット・フランク(姉)

署名

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アンネ・フランク(ドイツ語: Anne Frank)ことアンネリース・マリー・フランク(ドイツ語: Annelies Marie Frank ( 発音[ヘルプ/ファイル])、1929年6月12日 - 1945年3月12日)は、ユダヤ系ドイツ人の少女。『アンネの日記』の著者として知られている。ホロコースト犠牲者である。
概要

1929年ドイツ国フランクフルト・アム・マインに生まれたが、1933年1月に反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダアムステルダム亡命した。

しかし1939年9月から始まった第二次世界大戦中、1940年5月にオランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日から隠れ家での生活に入ることを余儀なくされた。フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入って、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを日記に書き続けた。

1944年8月4日ナチス親衛隊に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員が強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐え抜くことはできず、発疹チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。1945年3月上旬ごろのことと見られている。

隠れ家には、アンネがオランダ語でつけていた日記が残されていた。父・オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットーはミープからこの日記を手渡された。

オットーは娘・アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。この日記は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーになった[1][2]
生涯

父はユダヤ系ドイツ人のオットー・フランク。母は同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランク(旧姓ホーレンダー)。父・オットーは銀行家だった[3]。母・エーディトはアーヘンの有名な資産家の娘であった[3][4]。アンネは次女であり、3歳年長の姉にマルゴット・フランク(愛称マルゴー)がいた[5][6][7][8]ドイツ・フランクフルトのマルバッハヴェーク307番地にある幼少期のアンネのメモリアルプレート。右がアンネ。左がマルゴット(マルゴー)。中央は当時の友人。

生後12日目にエーディトはアンネをフランクフルト郊外のマルバッハヴェーク307番地にあったフランク一家の暮らすアパートに連れ帰った[9][10]。フランク一家は中産階級のユダヤ人一家だが、ユダヤ教にも他の宗教にもあまり熱心な家庭ではなかった[11]1931年3月、フランク一家はガングホーファー通り24番地のアパートへ引っ越した[12][13][14][15]。しかしフランク一家の家業である銀行業は世界的な不況から立ち直れず、業績が悪化していた。フランク一家は一般のドイツ国民よりは経済水準は高かったものの、節約のためにもアパートを借りるのはやめることとなった。一家はヴェストエント地区(ドイツ語版)のヨルダン通りにある実家へ戻った[16][17]。ここは1901年にオットーの父(アンネの父方の祖父)・ミヒャエルが購入した高級住宅で、ミヒャエルの死後はオットーの母・アリーセが1人で切り盛りしていた[18]。とはいってもフランク一家の私生活はあまり変わらず、一家はよく旅行やショッピングに出かけていた[19]

しかしこのころのドイツの政治は、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)が急速に伸長していた。1932年には同党が国会で最大議席を獲得し、その党首アドルフ・ヒトラー首相に任命されるのも目前に迫っていた。フランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う突撃隊員の姿がよく見られるようになった。1932年にオットーはエーディトと相談して、ドイツを離れることを考えたという。しかし亡命先で生活の糧を得られる見込みがなく、断念せざるを得なかった[20]
ドイツ脱出1933年3月21日、ドイツ国首相アドルフ・ヒトラー(左)とドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク(右)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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