アンヌ・ド・モンモランシー
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アンヌ・ド・モンモランシー
Anne de Montmorency
初代モンモランシー公
アンヌ・ド・モンモランシー(コルネイユ・ド・リヨン画)
在位1551年 - 1567年

出生 (1493-03-15) 1493年3月15日
フランス王国シャンティイ
死去 (1567-11-12) 1567年11月12日(74歳没)
フランス王国パリ
配偶者マドレーヌ・ド・サヴォワ
子女本文参照
家名モンモランシー家
父親ギヨーム・ド・モンモランシー
母親アンヌ・ポ
サイン
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アンヌ・ド・モンモランシーアンヌ・ド・モンモランシーの紋章

アンヌ・ド・モンモランシー(Anne de Montmorency, 1493年3月15日 - 1567年11月12日)は、ヴァロワ朝時代のフランスの軍人。数々の軍功を挙げた。初代モンモランシー公(在位:1551年 - 1567年)。「アンヌ」はフランスではありふれた女性名であるが、この人物は男性である。フランス元帥およびフランス軍総司令官(英語版)となり、5人のフランス王に仕えた[1]。妹にルイーズ・ド・モンモランシーがいる。
生涯

ギヨーム・ド・モンモランシーとアンヌ・ポの息子として1492年にシャンティイで生まれた[2]。代母アンヌ・ド・ブルターニュにちなんで名づけられた[3]ラヴェンナの戦い1512年[4]、マリニャーノの戦い(1515年[4]、メジエールの戦い(1521年[5]などで軍功を挙げ、フランス元帥に叙せられた[6]1525年パヴィアの戦いで捕虜となったが身代金と引き換えに解放され[5]、フランス王フランソワ1世神聖ローマ皇帝カール5世の緒戦を終結させたマドリード条約締結(1526年)の際には交渉に当たった。

フランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワの一族であるサヴォイア家マドレーヌ・ド・サヴォワと結婚した時には、フランソワ1世からフェール=アン=タルドノワ城を下賜されている。

1536年にはカール5世の侵攻からプロヴァンスを守り、その功で翌年宮内大臣の地位についた。しかし、1541年に国王の寵妃エタンプ夫人と対立したことから国王の信任を失った。とはいえ、その後もアンリ2世フランソワ2世シャルル9世らに仕え、アンリ2世亡き後には未亡人カトリーヌ・ド・メディシスの腹心の1人として不安定な王権を支えた。

ユグノー戦争で国王側の司令官として活動[7]1563年のアンボワーズの和議の調印にも貢献したが[8]、1567年のサン=ドニの戦いで致命傷を負い死去[1]。長男のフランソワが後を継いだ。モンモランシー公位は孫のアンリ2世が処刑されたことで消滅したが、アンリ2世の姉でコンデ公アンリ2世に嫁いだシャルロット=マルグリットが受け継いで存続した。ブルボン朝で軍人として活躍するコンデ公ルイ2世テュレンヌは曾孫に当たり、リュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーは同族に当たる。
子女

マドレーヌ・ド・サヴォワとの結婚により12子をもうけた。

フランソワ(1530年 - 1579年) - モンモランシー公[2]、国王アンリ2世の庶子ディアーヌと結婚


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