アンナ・クリスティーネ・ルイーゼ・フォン・プファルツ=ズルツバッハ
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アンナ・クリスティーネ・ルイーゼ・フォン・プファルツ=ズルツバッハ
Anna Christine Luise von Pfalz-Sulzbach


称号ピエモンテ公妃
出生 (1704-02-05) 1704年2月5日
神聖ローマ帝国プファルツ=ズルツバッハ公領、ズルツバッハ=ローゼンベルク
死去 (1723-03-12) 1723年3月12日(19歳没)
サヴォイア公国トリノ、トリノ王宮
埋葬 サヴォイア公国トリノ、スペルガ聖堂
配偶者後のサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世
子女ヴィットーリオ・アメデーオ
父親プファルツ=ズルツバッハ公テオドール・オイスタッハ
母親エレオノーレ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク
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アンナ・クリスティーネ・ルイーゼ・フォン・プファルツ=ズルツバッハ(Anna Christine Luise von Pfalz-Sulzbach, 1704年2月5日 - 1723年3月12日)は、ドイツのプファルツ=ズルツバッハ家の公女で、サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世の最初の妻。夫の即位以前に死去し、王妃にはならなかった。イタリア語名はアンナ・クリスティーナ・ルイーザ・デル・パラティナート=スルズバック(Anna Cristina Luisa del Palatinato-Sulzbach)。
生涯

プファルツ=ズルツバッハ公テオドール・オイスタッハとその妻でヘッセン=ローテンブルク方伯ヴィルヘルム1世の娘であるエレオノーレの間の末娘として生まれた。1722年3月15日にヴェルチェッリにおいて、サルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世の次男で世継ぎ息子のピエモンテ公カルロ・エマヌエーレと結婚した。翌1723年3月に長男のヴィットーリオ・アメデーオ(1723年 - 1725年)を出産したが、産後の肥立ちが悪くわずか19歳で急死した。

遺骸はトリノ大聖堂に安置されたのち、スペルガ聖堂に移された。一人息子のヴィットーリオ・アメデーオも2歳で亡くなっている。カルロ・エマヌエーレ3世は1724年、アンナの母方の従妹にあたるヘッセン=ローテンブルク侯女ポリクセナと再婚した。

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