アンドレ・マッソン
Andre Masson
本名アンドレ=エメ=ルネ・マッソン
Andre-Aime-Rene Masson
誕生日1896年1月4日
出生地 フランス共和国、オワーズ県・バラニー・シュル・テラン
アンドレ=エメ=ルネ・マッソン(Andre-Aime-Rene Masson, 1896年1月4日 - 1987年10月28日)は、フランスの画家である。アンドレ・マッソン、あるいは単にマッソンと表記される。シュルレアリスム運動に参加した画家の一人。 フランスのオワーズ県南部にある Balagny-sur-Therain に生まれ、ベルギーで育った。そのため、パリとブリュッセルで美術の教育を受けた。第一次世界大戦で兵士として参加し、重傷を負った。 マッソンの初期の作品には、キュビスムの影響が見て取れる。のちにマッソンは、交友のあったミシェル・レリスらとシュルレアリスム運動に参加し、オートマティスムの手法などを取り入れた作品を制作した(レリスは『アンドレ・マソン』という詩を発表している)。マッソンは時々、自らにストレスを課した状態(空腹、不眠状態など)で作品を手がけたが、そのような状態に自らをおくことで、理性などから解放され、より無意識的な意志を表現できると考えたためである。彼はパリのスタジオの隣人だったアントナン・アルトー、ジョアン・ミロ、ジョルジュ・バタイユらと無意識状態の実験をおこなった[1]。 1926年頃から、マッソンは作品に砂を取り入れ、図形を主体にした作品を制作するようになった。しかし1920年代の終わりごろにはシュルレアリスム運動を離れ、より画面構成を重視するスタイルをとり始め、作品のテーマにも暴力的なものやエロティックなものが取り入れられた。また、スペイン内戦に触発された作品も多く残している。 1940年代に第二次世界大戦が本格化すると、ナチス・ドイツの影響下にあったヴィシー政権のもとで、マッソンの作品は退廃芸術と見なされ、非難の対象となった。しかしマルセイユのヴァリアン・フライ
略歴
マッソンはコネチカット州のニュープレストンに住み、そこでジャクソン・ポロックなどの抽象表現主義の作品に触れた。終戦を迎えると、マッソンはフランスに戻りエクス=アン=プロヴァンスに移住、そこで風景画などを多く残した。
1987年、マッソンはパリで死去した。 同じく画家のリリ・マッソン
家族、親戚
代表的な作品
オートマティックドローイング(1924年)
魚の戦い(1926年)
グラディーヴァの変貌(1939年)
アダムとイヴ(1971年)
眼球譚(1984年、ジョルジュ・バタイユの著書。マッソンが挿絵を担当)
レダと白鳥(1987年)
脚注^ Oisteanu, Valery. ⇒“The Mythology of Desire: Masterworks from 1925 to 1945”. The Brooklyn Rail. ⇒http://brooklynrail.org/2012/06/artseen/andr-masson-the-mythology-of-desire-masterworks-from-1925-to-1945.