アンドレ・シャンソン
Andre Chamson
アンドレ・シャンソン(1962年)
誕生アンドレ・ジュール・ルイ・シャンソン(Andre Jules Louis Chamson)
(1900-06-06) 1900年6月6日
フランス共和国、ガール県ニーム
死没 (1983-11-09) 1983年11月9日(83歳没)
フランス、パリ
墓地ガール県ヴァル=デグアル
アンドレ・シャンソン(Andre Chamson、1900年6月6日 - 1983年11月9日)はフランスの作家、歴史学者、評論家。1935年に統一社会党、共産党、急進社会党を中心に反ファシズム統一戦線として結成された人民戦線の機関紙『ヴァンドルディ』をジャン・ゲーノ、アンドレ・ヴィオリス(フランス語版)とともに創刊。第二次大戦が勃発すると、ルーヴル美術館館長のジャック・ジョジャール(フランス語版)の計画に従って、ドイツ軍の攻撃が始まる前に国立美術館・博物館の所蔵品を地方の古城に移動・保管する作業を指揮した。アーキビスト(公文書管理専門官)・古文書学専門家としてヴェルサイユ博物館およびプティ・パレの学芸員、国立公文書館の館長、作家として国際ペンクラブの会長を歴任。プロテスタントに対する数世紀にわたる迫害の歴史で知られる故郷セヴェンヌ地方を舞台とする小説を多数著した。1956年、アカデミー・フランセーズの会員に選出された。 アンドレ・シャンソンは1900年6月6日、南仏ガール県ニームでアンドレ・ジュール・ルイ・シャンソン(Andre Jules Louis Chamson)としてジャン・シャンソンとマドレーヌ・アルドベールの間に生まれた。プロテスタント(ユグノー)に対する数世紀にわたる迫害の歴史で知られるセヴェンヌ山地で農業を営んでいた家系であり、シャンソンはユグノーが信教の自由のために起こしたカミザールの乱で知られるカミザール、改宗を拒んで38年間監禁されてもなお「抵抗」し続けたマリー・デュラン[1]の末裔を自称していた[2]。 父方の祖父ジュール・シャンソンは3人の息子とともにニームで小規模な工場を経営していたが、火災で焼失。シャンソンの父ジャンが同じガール県のアレスで家業を再建したが経営難が続き、貧しい生活のなかで同じくガール県のル・ヴィガンの母方の実家に預けられることが多かった[3]。 1906年にアレスのリセ・ジャン=バティスト=デュマ 1918年、グランゼコールの一つであるフランス国立古文書学校受験のためにパリに出て準備級に学び、ロジェ・ヴィトラック
生涯
背景
学業
1922年に洞穴学者・考古学者フェリックス・マゾーリック(フランス語版)の娘で同じ古文書学校の学生であったリュシー・マゾーリック(フランス語版)と出会って結婚。同年生まれで同じ学問分野に関心を抱いていただけでなく、彼女の祖先もまたプロテスタントであった[5][6]。
シャンソンは歴史学者・文献学者・碑文学者でコレージュ・ド・フランスの教授カミーユ・ジュリアン(フランス語版)に師事し、シャンソンが育ったル・ヴィガンにあったフランスで最も古いメロヴィング朝の司教区アリジトゥム(Arisitum)に関する研究を始め、1924年に博士号を取得した[2][5]。 一方、作家として執筆を始めたのもこの頃で、すでに1923年に随筆『態度』を自費出版していたが[7]、1925年には、信仰のために出征を拒否した男性の実話に基づく最初の小説『赤毛の悪漢』がグラッセ社
作家活動