アンドレ・ザ・ジャイアント
1980年代後半のヒールターン期
プロフィール
リングネームアンドレ・ザ・ジャイアント
モンスター・ロシモフ
アンドレ・ロシモフ
ジャン・フェレ
ジェアン・フェレ
モンスター・エッフェルタワー
ジャイアント・マシーン
本名アンドレ・レネ・ロシモフ
ニックネーム大巨人
世界8番目の不思議
人間山脈
一人民族大移動
身長223cm[1]
体重200kg[1] - 236kg[2]
誕生日1946年5月19日
死亡日 (1993-01-27) 1993年1月27日(46歳没)
出身地 フランス
セーヌ=エ=マルヌ県クロミエ
アンドレ・ザ・ジャイアント(Andre the Giant、本名:Andre Rene Roussimoff、1946年5月19日 - 1993年1月27日)は、フランス出身のプロレスラー。
公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では「世界8番目の不思議(The 8th Wonder of the World)」、日本では「大巨人」などの異名で呼ばれた。 フランスのセーヌ=エ=マルヌ県クロミエ
来歴
『プロレススーパースター列伝』などで日本に流布していた「プロレスラーになる前にはきこりをしていて、山中にいるところをエドワード・カーペンティアに 発見 された」という逸話は事実ではなく[3]、デビュー前はパリの家具運送会社に勤務しており[4]、無名時代にカーペンティアに見出されたというのが真相である。もっとも、南アフリカでのデビュー説もあるなどフランス時代の経歴については不明瞭な部分も多く、様々な説がある。フランス時代はジェアン・フェレ(Geant Ferre / Giant Ferre)、モンスター・エッフェルタワー(Monster Eiffel Tower)などの名義で活動していた[2]。
1970年2月に国際プロレスに初来日した際、同時来日していたAWAのバーン・ガニアに見込まれ、1971年9月より北米へ進出[5]。フランス語圏であるカナダのモントリオールを拠点に、ジャン・フェレ(Jean Ferre / 日本では英語風に「ジーン・フェレ」と読まれた)の名で活動する。ここで映画『キング・コング』をモチーフにした世界八番目の不思議(The 8th Wonder of the World)というニックネームが付けられた。巨人選手対決として、キラー・コワルスキーやドン・レオ・ジョナサンなど超大物選手とも対戦した。改名した1973年
1973年、アンドレ・ザ・ジャイアント(Andre the Giant)と改名し、WWWF(現:WWE)のプロモーターのビンス・マクマホン・シニアと契約。3月26日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初出場し、バディ・ウォルフから勝利を収めた[6]。しかしWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニアのブッキングで古巣のAWAやNWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになる。これは「滅多に出会えない怪物」として希少価値を高めるというマーケティング上の戦術からの判断である。実際、それまでにプロレス界に登場したスカイ・ハイ・リーやグレート・アントニオなどの怪物レスラーは、アンドレとは異なりアスリートとしての実力的な問題もあって、短期間で一般層のファンから飽きられて人気が衰えていった。カーリーヘアが印象的だった全盛期(1975年)
この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレはベビーフェイスのスペシャル・ゲストの立場で各地のビッグイベントに出場。バトルロイヤルやハンディキャップ・マッチなどで圧倒的体格による強さを見せつけつつ、テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハムら当時のNWA・AWA・WWWFのヒール系世界王者を始め、ザ・シーク、ワルドー・フォン・エリック、モンゴリアン・ストンパー、ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ、レイ・スティーブンス、パット・パターソン、キラー・カール・コックス、アーニー・ラッド、イワン・コロフ、バロン・フォン・ラシク、スタン・ハンセン、マスクド・スーパースター、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、バリアント・ブラザーズ、ミネソタ・レッキング・クルー、ロディ・パイパー、クラッシャー・ブラックウェル、アンジェロ・モスカ、ジョー・ルダック、キラー・ブルックス、バグジー・マグロー、ニコライ・ボルコフ、ザ・スポイラー、オックス・ベーカー、マーク・ルーイン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タンク・パットン、スーパー・デストロイヤー、サージェント・スローター、アレックス・スミルノフなど、各テリトリーのトップヒールと対戦した[7](欧州では1979年12月にローラン・ボックとのシングルマッチも実現している[4] )。