アンドレッティ・オートスポーツ(Andretti Autosport )はアメリカ合衆国のレーシングチームである。親会社はアンドレッティ・グローバル(英: Andretti Global)[1]。
2017年現在はインディカー・シリーズ、インディライツ、グローバル・ラリークロス、豪州スーパーカー選手権に参戦しているほか、フォーミュラEにもエントリーを表明している。以前はA1グランプリやアメリカン・ルマン・シリーズにも参戦していた。また、ゼネラルモーターズとともに、キャデラックとしてF1参戦計画を発表している[2]。
本項目では前身となったチーム・グリーン及びアンドレッティ・グリーン・レーシング(Andretti Green Racing)についても記載する。 1993年に、ジェラルド・フォーサイス
CART
フォーサイス・グリーン・レーシング
1994年はインディカー・ワールドシリーズにジャック・ヴィルヌーヴの1台体制で参戦し、インディ500では2位に入賞、第14戦ロード・アメリカで初優勝を達成した。 1994年シーズン終了後にバリーとフォーサイスは離別。フォーサイスはフォーサイス・レーシングとして、バリーはチーム・グリーンとして各々独立し、バリーは兄弟キム・グリーン
チーム・グリーン
1995年にはジャック・ヴィルヌーヴによりインディ500を制し、インディカー・ワールドシリーズのシリーズチャンピオンも獲得。ヴィルヌーヴはF1のウィリアムズへと移籍して行った。
1996年、ヴィルヌーヴの後任としてブラジルのビール「ブラマ(英語版)」をスポンサーに持つラウル・ボーセルを起用し、ブラマ・スポーツ・チームとして出走したが、シーズンを通し中団での戦いに終始し最高位7位と不振に終わる。
1997年、新たにパーカー・ジョンストン(英語版)をレギュラードライバーとして起用し、メインスポンサーにKOOL、エンジンはホンダを獲得し、CARTへのエントリー名はチーム・クール・グリーンとなった。ジョンストンはシリーズ16位に終わったが、このシーズン終盤に、ヨーロッパからアメリカに活動の舞台を移したスコットランドの新鋭ダリオ・フランキッティを獲得。シーズン終了後に6年在籍したチームペンスキーとの契約を打ち切られたポール・トレーシーとも契約し、翌年からの2台体制への移行に備えることとなった。フランキッティとトレーシーは以後5シーズンの間、チームメイトとしてチームに残留した。
1998年、フランキッティは頭角を現し、第14戦ロード・アメリカで初優勝を挙げると、第15戦バンクーバー、第17戦ヒューストンと優勝を重ねシリーズランキング3位を獲得。対するトレーシーは決勝レースでの安定感に欠けシリーズ13位に終わった。
2001年、マイケル・アンドレッティが、チーム・グリーン傘下であるチーム・モトローラに加入し、この年は第9戦クリーブランドでフランキッティが、第10戦トロントでマイケルがそれぞれ勝利を挙げた。
2002年、マイケルが第2戦ロングビーチで現役最後の勝利を挙げた[3]。また、開幕戦直後にシャーシ供給元であるレイナードが倒産し、第3戦もてぎからはローラへと使用シャーシを変更する。その初戦となったもてぎではマイナートラブルが発生したが、次の第4戦ミルウォーキーではトレーシーが優勝を飾り、第10戦バンクーバー、第13戦モントリオール、第15戦イングランドではフランキッティが優勝した。 2001年シーズンの末にCARTでエンジン既定を巡るトラブルが発端となり[4]、CARTへのエントリーは2002年までで打ち切り、翌2003年よりライバルシリーズであるインディカー・シリーズに移籍することになった。同時にマイケル・アンドレッティがチーム株式の多くを買い取ることで共同オーナーに参画し、アンドレッティ・グリーン・レーシング(AGR)と名称を変更した。トレーシーは、スポット参戦した2002年のインディ500で優勝を逃すことになった裁定への不満と、インディカーがカナダでのレースを行っていないため、CARTへのエントリーのために移籍、替わりにトニー・カナーンが加わる。 2003年は、ダリオ・フランキッティの負傷によりドライバーの変更が多い年となる。第3戦もてぎではダン・ウェルドン、第4戦インディ500ではロビー・ゴードン
インディカー・シリーズマイケルの息子、マルコ・アンドレッティ(2009年)セントピーターズバーグのライアン・ハンターレイ(2011年)第100回インディ500王者のアレキサンダー・ロッシ(2016年)第101回インディ500王者の佐藤琢磨とマイケル・アンドレッティ(2017年)
アンドレッティ・グリーン・レーシング
フランキッティが復帰し、2004年シーズンからは4台体制となる。2005年の第3戦セントピーターズバーグではウェルドン、カナーン、フランキッティ、ハータの順で1-2-3-4フィニッシュを達成した。また、カナーンとウェルドンはそれぞれ、インディカーシリーズの2004年と2005年のチャンピオンとなり、ウェルドンは2005年のインディ500でも勝利した。
2005年のタイトルを獲得したダン・ウェルドンは2006年にチップ・ガナッシ・レーシングへ移籍し、代わりにマイケルの息子マルコ・アンドレッティが加入することとなった。この年のインディ500では、マイケルも復帰して出走し、親子での上位争いが見られた。結果はマルコがチーム・ペンスキーのサム・ホーニッシュJr.に僅差で敗れ2位、マイケルは3位であった。
2006年7月25日、新しくAGRが参戦するアメリカン・ルマン・シリーズ用のアキュラLMP2のプロジェクトに参加するハータに替わって、ダニカ・パトリックが2007年からAGRに加入することが発表された。
2007年、フランキッティがインディ500とインディカー・シリーズのチャンピオンとなったが、翌2008年シーズンはチップ・ガナッシレーシングへ移籍し、NASCARスプリントカップシリーズに転向することとなった。10月31日、その補強として武藤英紀がカーNo.27のシートに座ることが発表された。武藤は2007年インディ・ライツから昇格してきたドライバーである。
インディ・ライツはインディカー・シリーズの下位カテゴリーで、AGRはそのシリーズに2台出走させるために、AFSレーシング(英語版)と提携している。2007年はウェイド・カニンガムとジェイミー・カマラがドライブし、それぞれ3位と6位となった。2008年は2007年にチャンプカー・アトランティックシリーズをドライブしていたラファエル・マトスとアリー・ルイエンダイクJr.(英語版)がドライブした。
2008年にはパトリックがツインリンクもてぎで初勝利。またカナーンも1勝を挙げた。さらに武藤がルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得している。パトリックは女性ドライバーとして主要モータースポーツでは世界ラリー選手権のミシェル・ムートン、パリ・ダカールラリーのユタ・クラインシュミット以来となる勝利であった。
2009年は前年同様の体制(インフィニオンのみフランク・モンタニーがスポット参戦)で臨んだが、未勝利に終わる。 2009年11月、マイケル・アンドレッティを単独オーナーとして、アンドレッティ・オートスポーツに改称することが発表された[5]。 2010年は武藤はニューマン・ハース・レーシングへ移籍し、当初一部レースのみの参戦予定でライアン・ハンター=レイが加入するが、チームに2年ぶりの勝利をロングビーチでもたらすと、フル参戦を勝ち取った。他にカナーンが1勝を挙げている。 2011年は、カナーンのメインスポンサーが体制を縮小したことにより離脱し、替わりに前年インディ500で大怪我を負ったマイク・コンウェイが加入し、引き続き4台体制で参戦した。ロングビーチでコンウェイが復帰3戦目で優勝、アイオワでマルコ・アンドレッティがオーバル初優勝、ニューハンプシャーでハンター=レイが優勝し、前年を上回る3勝をあげた。パトリックが翌2012年よりNASCARに本格転向するため、チームはウェルドンと契約をしていた。 2012年は、コンウェイがA.J.フォイト・エンタープライズ
アンドレッティ・オートスポーツ
2013年以降はチャンピオンから遠ざかっているが、チームプレイの生きるインディ500では強さを見せている。2016年はアレキサンダー・ロッシがチームメイトのスリップストリームを遣いながら燃費作戦を敢行、記念すべき第100回インディ500をルーキーの大逆転優勝で飾った。2017年は佐藤琢磨が加入し、インディ500では現役F1ドライバーのフェルナンド・アロンソも加わり、ジョイントを含め6台体制を敷いた(マイケル・アンドレッティはこれを6発の弾丸と表現している)[6]。