アンドレイ・ヴィシンスキー
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ソビエト連邦政治家アンドレイ・ヴィシンスキーАндрей Вышинский

生年月日 (1883-12-10) 1883年12月10日
出生地 ロシア帝国 オデッサ
没年月日1954年11月22日(1954-11-22)(70歳)
死没地 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク
出身校キエフ大学
所属政党ロシア社会民主労働党メンシェヴィキ
ロシア共産党(ボリシェヴィキ
ソビエト連邦共産党
配偶者カピトリーナ・イシドロフナ
子女娘1人
サイン
ソビエト連邦
第4代外務大臣
在任期間1949年3月4日 - 1953年3月5日
閣僚会議議長ヨシフ・スターリン
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アンドレイ・ヤヌアリエヴィチ・ヴィシンスキー(ビシンスキー、ロシア語: Андре?й Януа?рьевич Выши?нский、ラテン文字転写の例:Andrey Januaryevich Vyshinsky、1883年12月10日ユリウス暦11月28日) - 1954年11月22日)は、ソビエト連邦政治家法律家外交官ヨシフ・スターリンの時代に第4代外務大臣を務めた。
経歴

1883年12月10日(ユリウス暦11月28日)にロシア帝国のオデッサにて、ポーランド人の家族に誕生する。キエフ大学を卒業する。1902年ロシア社会民主労働党に入党する。ヴィシンスキーは当初、メンシェヴィキに所属するが、十月革命後の1920年にロシア共産党(ボリシェヴィキ)に入党した。検事の傍らモスクワ大学刑事訴訟法を教え、同大学教授・学長を務めた。1933年に検事総長代理となり、1935年に検事総長・司法人民委員代理を歴任する。

ヨシフ・スターリン時代での大粛清の所謂モスクワ裁判において、ヴィシンスキーは検察官として、ジノヴィエフブハーリン等を厳しく追及し、法廷で罪状を自白させた。ヴィシンスキー自身、かつてメンシェヴィキに属していたという過去から、常に党ひいては地上から抹殺されるという強迫観念に晒されていたと考えられる。その為スターリンに忠勤を励み、法廷では被告すなわちスターリンのライバル達を罵倒し、論告では冷酷に銃殺を求めた。法理論と訴訟手続きにおいて、「刑法は階級闘争の手段である」「自白はすべての証拠を上回る、いわば女王である」という原則を打ち立てた。すなわち自白を求めて肉体的・精神的な拷問が繰り広げられ、内務人民委員部をはじめとするソ連の政治警察に拷問を繰り返させることによって、法廷での有罪をあらかじめ認めさせるに至った。ブカレストにて(左から2人目)(1945年)

ラデックに対して論告求刑を行うヴィシンスキー(中央)

ドイツ降伏文書調印にて(1945年、前列左から2人目)

1937年から1941年にソ連科学アカデミー国家法研究所長として、社会主義国家法の最大強化路線に基づき上記のような刑事訴訟法の理論的基礎を形成し、ソビエト連邦の法律学は教義的色彩が濃いものとなった。1947年には『ソビエト法における裁判証拠の理論』(1941年)によってスターリン賞を受賞している。ヴィシンスキーは、ゲンリフ・ヤゴーダニコライ・エジョフをはじめとする大粛清の執行者達がスターリンによって自身も粛清の対象となった中にあっても生き残った。


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