Andrea del Verrocchio
芸術家列伝のヴェロッキオの肖像画[1]
誕生日1435年頃
出生地 フィレンツェ共和国
死没年1488年6月30日
死没地 ヴェネツィア共和国
運動・動向盛期ルネサンス、フィレンツェ派
芸術分野絵画、版画、彫刻、建築
代表作
『キリストの洗礼 』
『バルトロメオ・コッレオーニ騎馬像』
『聖トマスの懐疑』
『イルカと天使』
後援者メディチ家
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アンドレア・デル・ヴェロッキオ(英: Andrea del Verrocchio, 本名 Andrea di Michele di Francesco de' Cioni 1435年頃[2] - 1488年6月30日[3])は、イタリアのルネサンス期の画家、彫刻家、建築家、鋳造家、金細工師。
師弟関係
師匠[4][5]
ドナテッロ (確証がない)[6]
ジュリアーノ・ヴェッキオ (実在した人物かさえわからない)[7]
アレッソ・バルドヴィネッティ
ヴィットリオ・ギベルティ
ベルナルド・ロッセッリーノ
デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ
フィリッポ・リッピ
弟子[8]
レオナルド・ダ・ヴィンチ
サンドロ・ボッティチェリ (弟子と言うより協力者であったとする説がある)[9]
ピエトロ・ペルジーノ
ロレンツォ・ディ・クレディ
ドメニコ・ギルランダイオ
フランチェスコ・ボッティチーニ
元々ヴェロッキオの専門は彫刻であったが、絵画や版画、鋳造、機械工学や、数学、音楽の才にも恵まれており[10]、ウゴリーノ・ヴェリーノやラファエロの父であるジョヴァンニ・サンティらが彼を『稀代の良師』と讃えていることや、弟子の才能をよく把握し伸ばすことに長けていたということなどから[10]、フィレンツェの芸術家としてだけでなく、教育家としても第一人者であった。それ故工房には前途有望な若い芸術家たちが大勢集まることとなった。ペルジーノは後に弟子としてラファエロを、ギルランダイオはミケランジェロを迎えることとなる。[11]
人物ヴェロッキオの可能性がある肖像画[12]ヴェロッキオの肖像画
本名をアンドレア・ディ・ミケーレ・ディ・フランチェスコ・チオーニという[4]。生涯独身を貫いた[13]。トンマーゾと言う弟がいる[14]。
すべての記録の中で最初に彼の名が現れるのは、傷害致死事件に関するものである。1453年のフィレンツェ共和国の裁判記録によると、1452年に仲間同士で喧嘩をしていた最中に、「アントニオ・ディ・ドメニコ」という羊毛職人の頭に石を投げつけ、殺してしまったということである。結果、過失であったとして無罪となっている[4]。
「デル・ヴェロッキオ」という名前は1467年から記録に現れるが、それは彼の初期のパトロンであり、フィレンツェの有力貴族であったヴェロッキオ家に由来してのことだという[4]。しかし、『ヴェロッキオ』は「本物の目」という意味であり、芸術に対する彼の審美眼の高さを表すものであり、生前彼がいかに尊敬されていたか、その評判のほどを示しているとする説や[11]、事実かどうか疑わしいが、師事したというジュリアーノ・ヴェッキオという金工師から採られているという説もある[4][15]。
生涯
1460年代までブロンズ燭台
1435年にフィレンツェの聖アンブロージョ教会地区で生まれた。父の名はミケーレ・ディ・フランチェスコ・チオーニと言い、レンガ職人で後に税務官となった。母の名はジェンマと言った。経済的に貧しい家庭であった為、長男であった彼は自ら弟や妹を養わなければならなかった[16]。修業時代や彼の師弟関係について、確実に判っていることはなく、推測するほかない[4]。レオナルド・ブルーニ墓碑
芸術家列伝を著したヴァザーリによれば、教皇庁の建築顧問として活躍したベルナルド・ロッセッリーノの見習いとして、サンタ・クローチェ聖堂の『レオナルド・ブルーニ墓碑』の制作に参加するなどして、修業を積んでいたとしているが、1457年の資産報告書においては、自ら金細工師と名乗っている。同報告書においては、仕事がないので、これ以上この仕事を続けられないと窮状をも訴えている。[17][4]。