アンドルー・マーヴェル
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アンドルー・マーヴェル
アンドルー・マーヴェル
誕生 (1621-03-31) 1621年3月31日
ウィネステッド, イングランド
死没1678年8月16日(1678-08-16)(57歳)
ロンドン, イングランド
職業詩人
代表作"To His Coy Mistress", "The Garden", "An Horatian Ode"
ウィキポータル 文学
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アンドルー・マーヴェル(Andrew Marvell, 1621年3月31日 - 1678年8月16日)は、清教徒革命イングランド内戦)から王政復古期にかけてのイングランド形而上詩人、風刺作家、政治家である。1659年から1678年にかけて何度か庶民院の議員となった。イングランド共和国の時期では、ジョン・ミルトンの同僚、友人であった。

マーヴェルの詩は、「はにかむ恋人へ("To His Coy Mistress")」といった恋愛の詩から、貴族のカントリー・ハウスや庭を想起して書かれた「アップルトン屋敷に寄せて("Upon Appleton House")」や「庭("The Garden")」、政治的挨拶である「クロムウェルのアイルランドからの凱旋に寄せるホラティウス風オード("An Horatian Ode upon Cromwell's Return from Ireland")」、そして後には個人的かつ政治的風刺作品の「フレックノー("Flecknoe")」や「オランダの性格("The Character of Holland")」といったものがある。
生涯
若年期

マーヴェルは、イースト・ライディング・オブ・ヨークシャーのウィネステッド、キングストン・アポン・ハルの近くで生まれ、同名のイングランド国教会聖職者の息子として生まれた。 彼の家族は、マーヴェルの父親がキングストン・アポン・ハルにあるホーリー・トリニティ教会(英語版)で特任講師をしていた時にハルに引っ越した。マーヴェルはハル・グラマースクールで教育を受けた。ハルにある学校、アンドルー・マーヴェルビジネスアンドエンタープライズカレッジは、彼にちなんで名付けられている[1]

13歳の時、マーヴェルはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに通い、最終的に学士号を取得した[2]ゴドフリー・ネラーに宛てられたマーヴェルの肖像画が、トリニティ・カレッジの収蔵物として掛けられている[3]

後に、1642年の中頃からマーヴェルはおそらくヨーロッパ大陸を旅したものと思われる。彼は貴族がグランドツアーに行く際の教師としての役目を果たしたものと思われるが、これに関しては事実ははっきりしていない。イングランドで内戦が勃発したとき、マーヴェルは1647年までヨーロッパ大陸に留まったと見られている。1645年に彼はローマにいて、後にジョン・ミルトンが伝えたことによると、そのころにはマーヴェルはフランス語イタリア語スペイン語を含む4つの言語を習得していた。マーヴェルがこの旅でどこへ行ったのかは、このローマ以外は明らかになっていない[4]アンドルー・マーヴェル(1621?1678)
初めての詩と、ナン・アップルトンでの時

マーヴェルの最初の詩は、ラテン語とギリシャ語で書かれていて、彼がまだケンブリッジにいる頃に出版された。疫病の到来を嘆き、チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリアの間に子供が生まれたことを祝福する詩であった。マーヴェルがチャールズ1世が1649年1月30日に処刑されたことによって生じた空位期間における政治制度に共鳴するようになったのは、後になってからの事であった。1650年の始めに書かれた政治的詩である「ホラティウス風頌歌」は、たしかにオリバー・クロムウェルアイルランドからの帰還を祝っているが、チャールズ1世の死を嘆いたものである[5][6][7]

およそ1650年から1652年の間、マーヴェルはトーマス・フェアファクスの娘の家庭教師をしていた。そのころフェアファクスはクロムウェルに総司令官の座を譲ったばかりであった。その期間、ヨークの近くにあるナン・アップルトン・ホールに住んでいて、詩を書くことをやめてはいなかった。その詩の一つ、『アップルトン屋敷に寄せて、フェアファクス卿に向けて』では、戦争と政治的変化の真っただ中のフェアファクスとマーヴェル自身の置かれた状況を探求する方法として、屋敷の説明が使われている。おそらく、この時期に彼が書いた詩の中で最も有名なものは、『はにかむ恋人へ』であろう。
英蘭戦争とラテン語の書記としての採用

1653年第一次英蘭戦争が起きようとしているころ、マーヴェルは風刺的作品、「オランダの性格」を書いた。そのころのオランダステレオタイプを「酔っぱらっていて、下品だ」と罵った。この詩のなかで、マーヴェルは「この消化済みの、海の嘔吐物が、オランダに降ってきたのは妥当だ」と書いている。

1653年に、マーヴェルはクロムウェルの後見人であるウィリアム・ダットンの家庭教師となり、彼と一緒に住むためにイートンにあるジョン・オクセンブリッジの家に引っ越した。オッセンブリッジはバミューダ諸島に2度旅しており、そのことがマーヴェルが「バミューダ(Bermudas)」という詩を書くきっかけになったと考えられている。マーヴェルは、このときから護国卿となったクロムウェルを称える詩もいくつか書いている。1656年には、マーヴェルとダットンはフランスに旅し、プロテスタントの学校、アカデミーオブソミュールを訪れた[8][9]

1657年にマーヴェルは、そのころにはすでに目が見えなくなっていたミルトンに、クロムウェルの国務会議のためのラテン語の秘書として奉公した。この時の給料は1年に200ポンドであり、これは当時としては十分な財政的援助を得たことを意味していた。クロムウェルは1658年に死去、護国卿は息子であるリチャード・クロムウェルが引き継いだ。1659年には、マーヴェルは第三議会にキングストン・アポン・ハル選挙区(英語版)で議員として選出された[10]。彼の議員時代の日給は6シリングと8ペンスであり、この資金は彼の選挙区からの寄付金であった[11]。彼は1660年に、同じ選挙区で仮議会の議員に再選出された。
王政復古後キングストン・アポン・ハルにあるアンドルー・マーヴェルの像

1660年、共和制が瓦解してチャールズ2世のもとで王政復古がなされた。マーヴェルは共和制に協力したことによる罰則を逃れ、チャールズ2世の政府がミルトンを、君主制に反対するような文章を書いたことや革命的な行動について咎めないように説得した[12]。ミルトンとマーヴェルがいかに親密であったかは、マーヴェルが雄弁な前書きとなる詩、『ミルトンの失楽園によせて』を、ミルトンの叙事詩の第2版、『失楽園』にあてて書いたことからも分かる。伝記作家によると「自己保存の技に卓越しているが、おべっか使いではない」[13]


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