アンドリュー・ラマー・アレクサンダー
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アメリカ合衆国政治家ラマー・アレクサンダーLamar Alexander

生年月日 (1940-07-03) 1940年7月3日(83歳)
出生地 アメリカ合衆国 テネシー州メリービル
出身校ヴァンダービルト大学
ニューヨーク大学ロースクール
現職テネシー大学学長
ケネディスクール教授
所属政党共和党
称号文学士(ヴァンダービルト大学)
法務博士(ニューヨーク大学ロースクール)
配偶者ハニー・アレクサンダー
子女4人
宗教長老派教会
アメリカ合衆国
上院議員
選挙区 テネシー州
在任期間2003年1月3日 - 現職
アメリカ合衆国
第5代教育長官
在任期間1991年3月22日 - 1993年1月20日
大統領ジョージ・H・W・ブッシュ
 テネシー州
第45代知事
在任期間1979年1月16日 - 1987年1月17日
副知事ジョン・シェルトン・ワイルダー
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アンドリュー・ラマー・アレクサンダー(英語:Andrew Lamar Alexander、1940年7月3日 - )は、アメリカ合衆国政治家共和党に所属し、第45代テネシー州知事ジョージ・H・W・ブッシュ政権で第5代教育長官を務めた。
生い立ちと私生活ギターを即興演奏するアレクサンダー

1940年7月3日にテネシー州メリービルにおいて誕生した。父親は同名のアンドリュー・ラマー・アレクサンダー (Andrew Lamar Alexander、1907-1984)、母親はジェネヴラ・フローライン・ランキン (Genevra Floreine Rankin、1914-2000) であった[1]。アレクサンダーは高校時代にボーイズステイトのテネシー州知事に選出された。アレクサンダーは1962年にヴァンダービルト大学を卒業した。アレクサンダーは友愛会ファイ・ベータ・カッパ及びシグマ・カイに所属した。アレクサンダーは1965年にニューヨーク大学法科大学院を卒業した。アレクサンダーは大学院を卒業後、1965年から1966年までニューオーリンズで法廷書記官として働いた。アレクサンダーはアメリカ合衆国第5巡回区控訴裁判所において、ジョン・マイナー・ウィズダム判事の書記官を務めた[2]

1969年にテキサス州ヴィクトリア出身のレスリー・ブーラーと結婚した[3]。2人は連邦上院議員スタッフによるソフトボール大会で知り合った。知り合った当時、アレクサンダーはテネシー州選出ハワード・ベイカー上院議員の下で働いており、レスリーはテキサス州選出ジョン・タワー上院議員の下で働いていた。2人の間には、男子2人と女子2人が誕生した(アンドリュー、レスリー、キャスリン、ウィリアム)。

アレクサンダーはピアニストでもあった。アレクサンダーは主にクラシック音楽カントリー・ミュージックを演奏した。2007年4月には歌手パティ・ペイジが1950年のヒット曲「テネシーワルツ」をセルフカバーする際に、ピアノ奏者としてレコーディングに参加した。アレクサンダーがレコーディングに参加したきっかけは、レコード会社幹部のマイク・カーブの誘いによるものであった。2007年4月4日にはアレクサンダーの連邦上院議員再選に向けた選挙運動の資金調達のため、ナッシュヴィルのシャーマーホーン交響センターでパティ・ペイジと共にライブパフォーマンスを行った[4]
初期の政治経歴

1967年にハワード・ベイカー連邦上院議員の議会補佐官として勤務した。アレクサンダーは後の連邦上院議員トレント・ロットをルームメイトとして生活した。1969年にニクソン大統領の秘書官であるブライス・ハーロウの下で働いた[2]。1970年、アレクサンダーはテネシー州に戻り、ウィンフィールド・ダンの選挙参謀を務めた。アレクサンダーはダンの州知事選挙勝利に貢献した。

アレクサンダーはダンの選挙参謀として評価を受け、1974年の州知事選挙では共和党候補として指名を受けた。アレクサンダーは州知事選挙において、民主党の元連邦議員レイ・ブラントン候補と争うことになった。ブラントンはアレクサンダーについて、「ニクソンの下で働いていた男」と糾弾した。選挙戦の数ヶ月前にリチャード・ニクソンウォーターゲート事件で大統領を辞任していたことから、この非難はアレクサンダーの評判を下げる要因となった。またアレクサンダーの父親は教師であったが、そのような環境で育ったアレクサンダーは一般的なテネシー州民の考え方とは乖離があるとの攻撃もなされた。結果、民主党ブライトンが総投票の56パーセントを獲得し、得票率44パーセントの共和党アレクサンダーを下した。

1974年に雑誌タイムは、「将来の顔200人」の1人として、アレクサンダーの名前を挙げた[5]。1977年、ハワード・ベイカー連邦上院議員が上院少数党院内総務に選出されると、アレクサンダーはベイカーの秘書官となった。アレクサンダーはワシントンD.C.に移動し、ベイカーの事務所で勤務した。
テネシー州知事

1978年にテネシー州憲法が改正され、州知事の多選禁止が緩和された。これにより民主党所属の現職州知事レイ・ブラントンは1978年の州知事選挙に立候補することが可能となった。だが現職ブライトン知事は多くのスキャンダルを抱えていたため、再選を求めないことを表明した。アレクサンダーはこの州知事選挙に、共和党候補として立候補することを表明した。民主党からは銀行家ジェイク・ブッチャーが立候補した。アレクサンダーはテネシー州内1600キロメートルを巡り歩き、赤と黒の格子縞のシャツをシンボルとして選挙活動を行った。アレクサンダーは11月の本選挙で民主党ブッチャー候補を、得票率55パーセント対44パーセントで下した。

1979年1月初頭、退任間際のブラントン知事は恩赦を発令したが、この恩赦処分に対して州民が抗議騒動を起こした。この恩赦令は純粋な政治的駆け引きに伴うものと見られていたが、恩赦の一部には贈賄と思われるものが含まれていたため、騒動が発生した。

アレクサンダーは恩赦に関する騒動を沈静化するため、ブライトンを可能な限り早く知事の座から下ろす方策を検討した。テネシー州憲法は州知事の就任宣誓に関して、明確な日程の規定がされていなかった。アレクサンダーは副知事ジョン・ワイルダーや下院議長ネッド・マクウォーターら共和・民主両党の幹部と協議を行い、就任宣誓を当初の予定から3日前倒しで行うことで合意した[6]。ワイルダーはこの調整について、後に「テネシー流の弾劾」と名づけた。そしてアレクサンダーは就任宣誓の直後に、州会議事堂を力ずくで占拠するよう州高速パトロール隊に命令した。

アレクサンダーは1982年の選挙で再選を目指し、民主党ランディ・タイリーを下した。これによりアレクサンダーはテネシー州史上初めて、4年任期の州知事を2期連続で務めた人物となった。アレクサンダーは2期目の1985年から1986年にかけて、全米知事協会の議長を務めた。1987年1月、アレクサンダーはテネシー州憲法の三選禁止の規定により、州知事を退任した。
州知事退任後

アレクサンダーはテネシー州知事を退いた後、家族とともにオーストラリアで休暇を送った。1988年、アレクサンダーはテネシー州に戻り、テネシー大学学長を1991年まで務めた。アレクサンダーは続いて1991年から1993年までアメリカ合衆国教育長官を務めた。アレクサンダーは教育長官として、1992年にキリスト教系教育機関多国籍協会を宗教教育の認定機関として承認した。だがキリスト教系教育機関多国籍協会の承認に関しては、教育省の諮問機関が1987年と1991年に不適当の見解を繰り返し示していたため、論争を引き起こした[7][8][9][10]


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