アントン・ヘーシンク
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アントン・ヘーシンク

第1回世界柔道選手権大会の出場後(1956年)
基本情報
原語表記Antonius Johannes Geesink
オランダ
出生地ユトレヒト
生年月日 (1934-04-06) 1934年4月6日
没年月日 (2010-08-27) 2010年8月27日(76歳没)
身長198 cm
選手情報
階級無差別級、80 kg超級
段位十段
引退1965年

獲得メダル

柔道
オリンピック
1964 東京無差別級
世界柔道選手権
1956 東京無差別級
1961 パリ無差別級
1965 リオデジャネイロ80 kg超級
ヨーロッパ柔道選手権
銀1951 パリ一級
金1952 パリ初段
金1953 ロンドン無差別級
金1954 ブリュッセル無差別級
金1955 パリ三段
銀1955 パリ無差別級
金1957 ロッテルダム四段
金1957 ロッテルダム無差別級
金1958 バルセロナ四段
金1958 バルセロナ無差別級
金1959 ウィーン80 kg超級
金1959 ウィーン無差別級
金1960 アムステルダム80 kg超級
金1960 アムステルダム無差別級
金1961 ミラノ80 kg超級
金1961 ミラノ無差別級
金1962 エッセン80 kg超級
金1962 エッセン無差別級
金1963 ジュネーヴ80 kg超級
金1963 ジュネーヴ無差別級
金1964 東ベルリン80 kg超級
金1964 東ベルリン無差別級
銅1965 マドリード93 kg超級
銅1965 マドリード無差別級
金1967 ローマ無差別級


2013年10月24日現在
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アントン・ヘーシンク(Antonius Johannes Geesink、1934年4月6日 - 2010年8月27日[1])は、オランダユトレヒト出身の柔道家プロレスラー。身長198 cm。国士舘大学名誉博士
来歴・人物
少年時代 - 世界選手権制覇

ユトレヒトの貧しい家庭で育ち、12歳のときから建設現場で働いていた[2]。14歳より柔道を始め[3]、ユトレヒト市内の中等学校を卒業した後、1955年、オランダ柔道チームの指導を始めた道上伯に見出され[4][5] 徹底的な個人指導を受けた他、日本でも講道館天理大学松本安市らの指導を受け[6][7]、選手としての才能を開花させた。この後引退するまで、毎年2ヶ月ほど日本に滞在しトレーニングに励んでいた[8]

1956年東京都で開かれた第1回世界柔道選手権大会では、準決勝で吉松義彦に内股で一本負けを喫して3位、2年後1958年の第2回大会では準々決勝で山舗公義に内股返で一本負けしベスト8に終わったが、1961年の第3回大会では準決勝で古賀武[9]、決勝では前大会覇者の曽根康治袈裟固で破り、外国人選手では初[2] となる優勝を果たした。この時、オランダに凱旋帰国したヘーシンクを30万人の人々が迎えたという[10]

道上は当時のヘーシンクについて「指導には何でも従う、素晴らしく素直な選手だった。酒もタバコも慎み、休日は自然と触れ合いながら体力作りに専念するなど、感心するところは枚挙に暇がない」と評していた。また「出会った当時の彼は、198 cmという身長に似合わない弱気な劣等感の塊だったが、第1回世界選手権と東京での武者修行の後に帰国した彼は見違えるほどの自信に満ち溢れ、まるで選手権者のような貫禄を有していた」と、柔道を通しての人間性の劇的な変化に驚嘆したとも語っている。

トレーニングにおいては、当時としては先鋭的だった筋力トレーニングを体力作りに用い、また柔道だけでなく様々なスポーツを取り入れていた。この時期に出場したレスリングのオランダ全国大会ではグレコローマンスタイルで優勝し、レスリング世界選手権でも6位という成績を残している。更に1960年ローマオリンピックレスリングに出場しようとしていたが、プロ選手と判断され[なぜ?]出場は叶わなかった[11]
東京五輪東京五輪・柔道表彰式で準優勝の神永昭夫と握手するヘーシンク

1964年に開催された東京オリンピックでは、柔道の無差別級に出場し、決勝戦で日本代表の神永昭夫を9分22秒(当時、試合時間は15分だった)袈裟固一本で下して金メダルを獲得した。柔道が正式競技として初めて採用された地元開催のオリンピックの、それも武道=体重無差別という風潮が残っていた当時、最も重要視されていた無差別級で外国人が日本代表を下して優勝を果たした事は、自他共に柔道を「お家芸」と認める日本にとって計り知れない衝撃をもたらした[12][13]。そのためこの出来事は、そののちも国内外の柔道史の話題に頻繁に上っている。

ヘーシンクが神永に勝利した瞬間、会場の日本武道館は信じられないものを見たような静けさに包まれ、観戦していた瀬戸内晴美によると、敗れて居住まいを正す神永は、顔面蒼白になって泣いているようにも見えたという。またこの時、オランダ関係者が歓喜のあまり畳の上に土足で上がり駆け寄ろうとしたが、「礼」を重んじたヘーシンクはこれを手で制止して試合場まで上らせなかった[14][2][3]。この時の行動は「礼に始まり礼に終わる」という柔道の精神を体現したものとして、そののちも高く評価されている[6][9][15]

ヘーシンクは後にレキップ誌(仏)のインタビューで、「東京五輪で勝てなければ、パリ世界選手権でのタイトルは何の価値もないものと自身に言い聞かせていたため、五輪での優勝が決まった瞬間はただただ安堵した」と語り、「この大会で日本人が優勝していたら柔道は地方のスポーツと見做され、1972年五輪の正式競技となる事はなかっただろう」と続けている[8]。またオランダ柔道連盟会長のJos Hellも、このヘーシンクの勝利がなければ柔道が国際的なスポーツとなることはなかったと述べている[2]

東京オリンピック無差別で金メダルを獲得した直後に尼崎で開催された国際親善柔道大会では、決勝トーナメント1回戦で加藤雅晴と対戦した際に、先に小外刈で技ありを取られるも抑え込みで逆転勝ちした。しかし、小外刈の技あり判定を不服として次の試合を放棄すると、会場を立ち去った。その不作法な態度に会場からは非難の声があがったという[16][17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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