アントワネット・ド・モナコ
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アントワネット・ド・モナコ
Antoinette de Monaco
モナコ公女アントワネット(中央・パンフレットを持っている)と2番目の夫ジャン=シャルル・レイ(右端)、1962年11月2日、モナコでのバレエ観劇の直前の様子

称号マシー男爵夫人
出生 (1920-12-28) 1920年12月28日
フランス共和国パリ
死去 (2011-03-18) 2011年3月18日(90歳没)
モナコ[1]
埋葬モナコ=ヴィル、平和礼拝堂
配偶者アレクサンドル・ノゲ
 ジャン=シャルル・レイ
 ジョン・ギルピン(英語版)
子女エリザベート=アンヌ・ド・マシー
クリスチャン・ド・マシー
クリスティーヌ・ド・マシー
家名グリマルディ家
父親ピエール・ド・ポリニャック
母親シャルロット・ド・モナコ
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アントワネット・ルイーズ・アルベルト・シュザンヌ・ド・モナコ(La princesse Antoinette Louise Alberte Suzanne de Monaco, baronne de Massy, 1920年12月28日 - 2011年3月18日[1])は、モナコ公家の公女。レーニエ3世の姉。
生涯

モナコ公ルイ2世の世継ぎ公女、ヴァランティノワ公爵夫人シャルロットとその夫ピエール公子の間の第1子・長女として[2]パリ16区の高級住宅街パッシー(英語版)地区で生まれた。

母は祖父の非嫡出子で、1919年公位継承権を与えられてモナコ公家の成員となったばかりだった[3]。父が隠れた同性愛者だったことが原因で[3]両親の夫婦仲は悪く、1930年法的に別居、1933年離婚した[2][3]。養育権は父が持ったものの、アントワネットは主にパリで祖父の影響下に育った[2][3]。公女の教育は型にはまらない自由なものだった[3]

第二次世界大戦中の1943年にドイツ軍がモナコを占領した。このとき、アントワネットはあるドイツ人将校と恋に落ちて結婚を望むようになり、結婚問題は大きな議論を呼んだ。結局、祖父ルイ2世はドイツ将校との結婚を禁じた[2][4]
弟との関係

1949年モナコ公位に就いた弟レーニエ3世は当初独身だったため、アントワネットが公位継承順位第1位だった。公女は弟を退位させて公位に就こうと画策したり、自分の息子が公位継承者に指名される可能性を探ったりしていた。アントワネットの企みは、愛人で当時モナコ国民議会議長を務めていた弁護士ジャン=シャルル・レイの支持を受けていた[2]。また公女は、レーニエ3世を結婚から遠ざけようと、弟の交際相手のフランス人女優ジゼル・パスカル(英語版)が不妊症で、将来モナコ公妃となっても公位継承者は望めないとの噂を流した[2]。1953年、この噂が原因でレーニエ3世がジゼルとの交際を諦めると、アントワネットはモナコ宮廷のペルソナ・ノン・グラータとなった[2]

しかしそれでも、1956年4月にレーニエ3世が米国人女優グレース・ケリーと結婚するまでは、アントワネットはモナコのファーストレディとして宮廷の催し事の中心に居続けた。例えば1955年8月モンテカルロで行われたモナコ赤十字社(フランス語版)主催舞踏会にレーニエ3世の同伴者として出席した[5]。レーニエとグレースの結婚を契機に、レーニエとアントワネットの姉弟関係は修復された。姉弟関係は、1982年グレース公妃が事故死したときに最も親密になった[2]。この頃には、アントワネットはモナコ国民にとって「愛すべき」存在となっていた[6][7]
結婚歴・人物

弁護士・テニス選手アレクサンドル・ノゲ(Alexandre Noghes 1916年 - 1994年)と恋愛関係になり、間に3人の子供をもうけた。彼はモナコグランプリを創始した事業家アントニー・ノゲの息子で、ノゲ家はスペイン系だった。1951年10月23日又は12月4日、2人はモナコ公家の承認を得ず、密かにジェノヴァで結婚したが[4][5]、1954年には離婚した[4]。ノゲはレーニエ3世から在ジェノヴァ・モナコ総領事の肩書を与えられた[8]。最初の結婚をした1951年、モナコ公家はアントワネットに「マシー男爵夫人(baronne de Massy)」の爵位を授け[5][8]、3人の子供も同じ爵位を帯びることを許された。

1961年12月2日、デン・ハーグで長年の愛人だった政治家・弁護士のジャン=シャルル・レイ(Jean-Charles Rey 1914年 - 1994年)と再婚したが、1972年に離婚。1983年7月28日、モナコで10歳年下の英国人バレエダンサー、ジョン・ギルピン(英語版)(1930年 - 1983年)と3度目の結婚をする。ギルピンの心臓発作による突然死のため、この最後の結婚生活は僅か6週間で終わった。

アントワネットは「エキセントリック」で、「短気」で「厄介」な女性と評された[3]。動物愛好家であり、動物保護運動を強く推進した。1950年代、公女は南仏エズのヴィラ「ル・ブー・ド・モンド(Le Bout de Monde)」にアニマルシェルター(英語版)を設け、多数の遺棄された犬猫を受け入れた。公女は死去するまでモナコの動物保護団体「モナコ動物保護協会(Societe protectrice des animaux de Monaco)」総裁を務めた。
晩年

2002年、1962年モナコ憲法(フランス語版)の公位継承に関する条項が修正され、公位継承権者は現君主とその兄弟姉妹の嫡出子孫に限るとされた。2005年弟レーニエ3世が死去すると同時に、アントワネットとその子孫はモナコ公位継承権者(英語版)の列から廃除された[3]

公女は2007年までモナコ赤十字社主催の舞踏会に毎年参加していた。参加の際は、当時まだ独身だった甥のアルベール2世公が同伴者であった[3]。2011年1月、「モナコ女性連合(Union des Femmes Monegasques)」はモンテカルロのレストラン「カフェ・ド・パリ(Cafe de Paris)」でアントワネット公女の90歳の誕生日を祝する大規模な晩餐会を催した[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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