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やノートページでの議論にご協力ください。アントロポゾフィー協会( -きょうかい、独: Anthroposophische Gesellschaft)は、人智学(アントロポゾフィー)運動[* 1]の創始者ルドルフ・シュタイナー(1861年-1925年)の支持者たちが1912/3年[* 2]に結成した団体、および、1923年末に最晩年のシュタイナーが協会の立て直しを図って創設した団体である[* 3]。人智学協会(じんちがくきょうかい)とも。
後者は正式名称を普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会、独: Allgemeine Anthroposophische Gesellschaft)といい、今日に至るまでスイスのバーゼル近郊の都市ドルナハに協会本部ゲーテアヌムを置いている国際的な会員組織である。 冒頭に述べたように、今日現存する「人智学協会」(アントロポゾフィー協会)と通称される団体の正式名称は「普遍アントロポゾフィー協会」である。したがって「アントロポゾフィー協会」(人智学協会)と「普遍アントロポゾフィー協会」(一般人智学協会)は厳密には同義ではない。 ルドルフ・シュタイナーが直接的に協会運営に関わっているという点や協会組織の構成から、1912/3年にドイツで設立された「アントロポゾフィー協会」と1923年にスイスのドルナハで設立された「普遍アントロポゾフィー協会」は区別する必要がある。しかし前者は後者の前身であるから、両者を包括して「アントロポゾフィー協会」と呼ぶことも可能である。現代において「アントロポゾフィー協会」という表現が用いられる場合、それは通常、ゲーテアヌムに本部を置く“現存する”アントロポゾフィー協会を指す。ただし上述の背景により、広義には1912/3年創立の「アントロポゾフィー協会」もそれに含まれる。 1902年10月、ベルリンで「神智学協会ドイツ支部」が設立された。これは1880年代からの歴史を有するドイツ神智学協会に由来するが、神智学協会分裂後のいわゆるアディヤール派のドイツ・セクションであり、インドのアディヤールに置かれた協会本部に直属する組織であった。創立には、後にアディヤール神智学協会の会長に就任するアニー・ベサントがヘンリー・スティール・オルコットの署名した参事証書を持参して同席している。そしてこの神智学協会ドイツ支部においてヴィルヘルム・ヒュッベ・シュライデンの推薦で初代事務総長に就任したのは、同年1月に神智学協会に入会していたルドルフ・シュタイナーであった(同時に、後の妻になるマリー・フォン・ジーフェルスが秘書に就任)[4]。 神智学協会ドイツ支部の中で展開されていた思想は神智学(テオゾフィー)ではなく人智学(アントロポゾフィー)であったとルドルフ・シュタイナー自身は告白している。神智学協会ドイツ支部の会員の大部分が1912/3年のアントロポゾフィー協会創立に際して移籍していることなども考慮すれば、神智学協会ドイツ支部も“広義の”アントロポゾフィー協会に含まれると考えることができる。シュタイナー学派の学者は同協会を「アントロポゾフィー協会の誕生前史」とみなしている。神智学協会ドイツ支部(1902年)、アントロポゾフィー協会(1912/3年)、普遍アントロポゾフィー協会(1923年)という三つの協会は、ルドルフ・シュタイナーという人物と人智学という思想に密接に関係しているという点において、本質的に同じ性格のものである。 “最初の”人智学協会は、シュタイナーが代表を務める「神智学協会ドイツ支部」が当時の神智学協会から分離独立する形で1912/3年に設立された。 分裂に至った経緯は以下の通りである。1907年に神智学協会会長に就任したアニー・ベサントは、西洋のキリスト教的な道に傾いているシュタイナーについて、東洋志向の自分たちとは方向性を異にしていることを指摘しながらも、表面的には高く評価する態度を見せていた[5]。しかし実情ではすでにこの頃、両者間には潜在的な不和が生じていた[6]。1911年、ベサントは、自分の養育してきたインド人少年ジッドゥ・クリシュナムルティを世界教師となる資質をそなえた来るべきメシアであると宣言し、これを代表に据えた「東方の星教団」を設立した。これをきっかけにシュタイナーとベサントの対立は顕在化する。ベサントは西洋人に対してはクリシュナムルティはキリストの再来だと説明したが、キリストが現代に再受肉したという考えはシュタイナーにとって是認しうるものではなかった。シュタイナーは東方の星教団に参加した者は自分の率いるドイツ支部の会員にとどまることはできないと宣言する[3]。これを承けてベサントは神智学協会の総会においてシュタイナーのドイツ支部の設立許可を取り消し、一方、一部を除くシュタイナー支持のドイツの神智学徒たちはベサントの辞職を要求した[3]。1912年末までに両者は完全に決裂し[7]、シュタイナーに従って神智学協会を脱退した人々によって翌年初めに人智学協会が設立された[2]。
名称
沿革
前身
協会の設立
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