アントニー・バウチャー
[Wikipedia|▼Menu]

アントニー・バウチャー
(Anthony Boucher)
ペンネームアントニー・バウチャー
H・H・ホームズ
誕生ウィリアム・アントニー・パーカー・ホワイト
(1911-08-21) 1911年8月21日
カリフォルニア州オークランド
死没 (1968-04-29) 1968年4月29日(56歳没)
オークランド
職業作家、編集者、批評家
言語英語
国籍 アメリカ合衆国
最終学歴南カリフォルニア大学
カリフォルニア大学バークレー校
ジャンル推理小説
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

アントニー・バウチャー又はアンソニー・バウチャー(Anthony Boucher、1911年8月21日 - 1968年4月29日、本名:ウィリアム・アントニー・パーカー・ホワイト〈William Anthony Parker White〉)は、アメリカ合衆国SF編集者推理小説の批評家、作家である。H・H・ホームズというペンネームも使用したが、この名は19世紀末のシカゴの大量殺人者が使っていた偽名に由来する。
目次

1 経歴

2 文筆活動

3 ラジオ

4 主な著書

4.1 ミステリ

4.2 短編集

4.3 連作

4.4 ラジオドラマ集

4.5 書評集

4.6 アンソロジー


5 出典

6 外部リンク

経歴

1911年カリフォルニア州オークランドに生まれる。

1927年、15歳の時に短編"Ye Goode Olde Ghoste Storie" が本名で『ウィアード・テイルズ』1月号に掲載される。同誌にはその後1940年代にバウチャー名義で2篇を寄せている。

1932年南カリフォルニア大学を卒業。ファイ・ベータ・カッパの会員となる。後にカリフォルニア大学バークレー校で修士号を取得する。

1937年、初の長編『ゴルゴタの七』を発表する。

1968年4月29日、オークランドのカイザー財団病院で肺癌で死去。

年に一度開催されるミステリの世界大会「バウチャーコン」は、バウチャーに敬意を表してその名が冠された。
文筆活動

大学卒業後劇評や音楽評を行うが、1937年に長編小説家に転身する。それも5年間で終わり、以後1947年まで、『サンフランシスコ・クロニクル』でSFと推理小説の書評家を務めた。その後『ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビュー』紙上で、1951年から死の直前まで「クリミナルズ・アト・ラージ」という推理小説の書評欄を執筆した。

1946年クレイトン・ロースン、ローレンス・トリート(英語版)、ブレット・ハリデイ(英語版)らと共にアメリカ探偵作家クラブを創設。同年、前記『クロニクル』紙のミステリ批評でエドガー賞 評論賞を受賞。これはのちに“The Anthony Boucher Chronicles”という題で単行本化されている。1949年から1958年までJ・フランシス・マッコーマス(英語版)と共に『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』(以後、F&SF)の編集者を務め、文学的質を重視する方針を打ち出すなど尽力した。1957年1958年には、ヒューゴー賞プロ雑誌部門を共同で受賞。1952年から1959年にかけて、『F&SFベスト』(原題:Best from Fantasy and Science Fiction )というアンソロジーのシリーズを編んだ。

『アドベンチャー』『ブラック・マスク』『アスタウンディング』『ギャラクシー・サイエンス・フィクション』『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』『マスター・ディテクティブ』『アンノウン・ワールズ』『ウィアード・テイルズ』など多くの有名雑誌に短編小説を発表した[1]。短編「The Quest for Saint Aquin 」は、アメリカSF作家協会1970年に選出したSFオールタイムベストの1編に選ばれ、ロバート・シルヴァーバーグ1970年に編纂したSFアンソロジー『The Science Fiction Hall of Fame Volume One, 1929-1964 』に収録された。

長編小説については、ホームズ名義の『密室の魔術師』が、アンソロジー『密室大集合』で発表された歴代密室物長編のアンケートで第9位にランクインしている。やはりホームズ名義の長編『死体置場(モルグ)行ロケット』は、スペース・オペラの人気シリーズの著作権を巡る密室物で、有名SF作家を思い起こさせる人物が何人も登場するモデル小説として知られる。また、トリック(常人には実行不能)が明らかにされた際、登場人物の一人が「同じことができる人間がいる」と、バウチャー自身を引き合いに出す。これら2長編ほか短編にも登場するシスター・メアリー・アーシュラ、やはり長短編両方に登場するファーガス・オブリーン、短編専門のニック・ノーブル、ロサンゼルスをホームグラウンドにする以上の3人がバウチャーのシリーズ・キャラクター[2]である。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編「八岐の園」(原題:El jardin de senderos que se bifurcan )の英訳を『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』1948年8月号に掲載し、作者を英語圏に初紹介した翻訳家でもある。ジョルジュ・シムノンの英訳も手掛けている。

バウチャーはフィリップ・K・ディックなど、若いSF小説家の友人であり助言者でもあった。
ラジオ

バウチャーはラジオの脚本や他の多くの活動に関わった。ウィリアム・F・ノーランのエッセイ『Who Was Anthony Boucher? 』の中では以下のように語られている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

1940年代はバウチャーにとって多忙で生産的な10年間であった。1945年にはラジオのキャリアを開始し、1948年までの3年間に「エラリー・クイーンの冒険」(原題:The Adventure of Ellery Queen )で100以上のエピソードの脚本を担当し、同じ時期にはシャーロック・ホームズのラジオドラマの脚本も手がけた。1946年の夏ごろにはラジオドラマ"The Casebook of Gregory Hood" 用に自作ミステリを創作した。バウチャー自身は「当時は1週間に脚本を3本は書いていて大変だったが楽しくもあった」と述べていた。

以下は、バウチャー自身の言である。

1948年にはラジオの仕事を辞め、J・フランシス・マッコーマス(英語版)と『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』の創刊に向けて多くの時間を費やし、1949年に同誌は創刊され、翌1950年には軌道に乗った。他のプロジェクトも手がけていたが、同誌の創刊は私にとって実にクリエイティブな挑戦であった。1958年まで『F&SF』に編集者として在籍した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef