出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2017年4月)
アントニン・レーモンド
生誕アントニーン・ライマン
1888年(明治21年)5月10日
オーストリア=ハンガリー帝国
ボヘミア王国 クラドノ(現・ チェコ中央ボヘミア州 クラドノ)
死没 (1976-10-25) 1976年10月25日(88歳没)
アメリカ合衆国 ペンシルバニア州ニューホープ
アントニン・レーモンド(Antonin Raymond, 1888年5月10日 - 1976年10月25日)は、チェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残す。日本人建築家に大きな影響を与えた。第二次大戦時アメリカの対日戦争協力者でもあった[1]。 父アロイと母ルジーナの間の1男第3子アントニーン・ライマン (Antonin Reimann) としてオーストリア=ハンガリー帝国(現在のチェコ)クラドノで生まれる。プラハ工科大学で建築を学び、卒業後の1910年にアメリカへ移住。カス・ギルバートの下で働き、1914年には仕事仲間であったノエミ・ベルネッサン(en:Noemi Raymond
生涯
1919年、帝国ホテル設計施工の助手としてライトと共に来日。1922年独立し、レーモンド事務所を開設する。ライトの影響が余りに強烈であったため、そこから抜け出すのに苦労したという。聖路加国際病院などの設計をベドジフ・フォイエルシュタイン(Bed?ich Feuerstein、オーギュスト・ペレの弟子)と共同で行ったほか、ル・ランシーの教会堂(ペレの代表作)をコピーした東京女子大学礼拝堂を建設した。ペレを介してライトの影響から逃れ、モダニズム建築の最先端の作品を生み出すようになった。その頃の作品に、イタリア大使館中禅寺保養所がある。壁に市松調模様や独特の平面プランニング、日本家屋と欧米生活様式の融合を図ったディテールなどはライト建築との決別を意味する新境地となる。前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家がレーモンド事務所で学んだ。
上記の通り1916年にアメリカ市民権を取得しているが、第一次世界大戦後にチェコスロバキアが独立を果たすとトマーシュ・マサリク率いる政府を代表する名誉領事に任命された[4]。
1924年、港区赤坂に自邸を建設、「霊南坂の家」として知られる(現存せず)。また、レーモンドは日本に到着するとすぐに長野県軽井沢の存在を知り、事務所のスタッフと夏を過ごすのに完璧な場所だと考え、1933年には別荘「夏の家」を建てた(現存)[5]。