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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯55度58分01秒 西経4度04分01秒 / 北緯55.967度 西経4.067度 / 55.967; -4.067アントニヌスの長城を東方に望む長城の遺構ハドリアヌスの長城とアントニヌスの長城の位置.
アントニヌスの長城(アントニヌスのちょうじょう、英語: Antonine Wall)は、スコットランドの中央部に残る石と土で作られた古代ローマ時代の防塁。
2008年に「ローマ帝国の国境線」に含まれる形で国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された。 長城の建築はアントニヌス帝の統治下、西暦142年から144年にかけて行われた。長城はクライド湾沿いの古キルパトリック(ウェスト・ダンバートンシャイア)からフォース湾沿いのフォールカークまで60キロに及んでいる。長城は、先帝によって築かれた160キロ南にあるハドリアヌスの長城に代わるものとして建設され、ローマ人は城壁北方に城堡や基地を築いた。ローマ人は長城から北を「カレドニア」と呼んだ。ただし、この場合の長城はハドリアヌスの長城を指すこともある。スコットランド人(カレドニア人)を征圧できなかったため、長城は幾度もの攻撃にさらされた。 アントニヌスの長城はハドリアヌスの長城に比べ、規模や構築物の点で見劣りがするが、寒さの厳しいローマ帝国の北辺にたった2年で建設されたということを考えると、驚嘆すべき業績といえる。長城は北に幅広の堀を、南に軍道を持つ高さ4メートルの土塁だった。ローマ人は長城の6マイル(9.66キロメートル)ごとに堡塁を設ける計画をしていたが、結局のところ、城壁沿いの19個の堡塁にあわせて2マイル(3.22キロメートル)ごとに改められた。最も保存状態が良いものは、最小の砦の一つでもあるラフ・キャッスル砦である。 次代のアウレリウス帝の治世下、西暦164年、ローマ軍はハドリアヌスの長城へと撤退し、アントニヌスの長城は建設後わずか20年で放棄された。のちにブリソン族 長い年月の間に、風雨にさらされたり建築材料になってしまったりで、現在ハドリアヌスの長城もアントニヌスの長城もほとんど残っていないが、それでもビアースデン、カーキントルック、トゥエーカー、クロイ、ファルカーク、それにポルモントなどに行けば、現存する長城の一部を見ることができる。 スコットランドの年代記のような中世の歴史書では、アントニヌスの長城は「グリム堤」と呼ばれている。年代記ではこれを、ファーカーの伝説にあるエウゲニウス王の父祖に由来する名称としている。
概要
長城の放棄
グリム堤