アントニオいのき
アントニオ猪木
2012年12月24日、阪神競馬場にて
生誕猪木 完至
(1943-02-20) 1943年2月20日[1]
日本 神奈川県横浜市鶴見区
死没 (2022-10-01) 2022年10月1日(79歳没)
日本 東京都港区[2][3]
国籍 日本
出身校横浜市立寺尾中学校
職業プロレスラー
政治家
事業家
身長190 cm[4] - 191 cm[5]
体重102 kg (225 lb)[4] - 110 kg[5]
配偶者独身(死別・離婚歴複数、後述)
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プロレスラー
プロフィール
リングネームアントニオ猪木
猪木 寛至
猪木 完至
カンジ・イノキ
トーキョー・トム
リトル・トーキョー・トム
ミスター・カジモト
ニックネーム燃える闘魂
若獅子
所属フリー
スポーツ歴陸上
トレーナー力道山
豊登
サニー・マイヤース
カール・ゴッチ
デビュー1960年9月30日
引退1998年4月4日
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アントニオ猪木
YouTube
チャンネル
アントニオ猪木「最後の闘魂」
日本の政治家アントニオ猪木
前職会社役員[1]
所属政党(スポーツ平和党→)
(日本維新の会→)
(次世代の党→)
(日本を元気にする会→)
無所属(無所属クラブ→国民民主党・新緑風会)
称号従四位
旭日中綬章
参議院議員
選挙区比例区
当選回数2回
在任期間1989年7月23日 - 1995年7月22日
2013年7月29日 - 2019年7月28日
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アントニオ猪木(アントニオいのき、本名:猪木 完至[注釈 1]〈いのき かんじ〉、1943年〈昭和18年〉2月20日 - 2022年〈令和4年〉10月1日)は、日本の男性プロレスラー、実業家、政治家。位階は従四位。
神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂[7]」。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。複数の結婚歴と離婚歴があり(事実婚を含めて4回結婚している[8][9])、二番目の妻は女優の倍賞美津子である。倍賞との間に娘が一人いる。1991年にイラクのカルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン・イノキ」[10]。ただし、ワシントン・ポストによると本人は仏教徒とも自認しており[11]、葬儀も仏式で行われ、「闘覚院機魂寛道居士」の戒名も与えられた[12][13]。
プロレスラーとしては新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。スピードあふれる正統派スタイルを貫き、コブラツイストや卍固め、延髄斬りなどを必殺技に活躍した[14]。政治家としては参議院議員(2期)、スポーツ平和党代表、次世代の党国民運動局長兼参議院政策調査会長、日本を元気にする会最高顧問、同代表などを歴任。 神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。父親は猪木が5歳の時に死去[15]。前田日明は「猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって」と著書に書いている[16]。実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。 12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り[注釈 2]、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。 幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと呼ばれていたが、ブラジル移住後は陸上競技選手として1958年、1959年の全伯(全ブラジル)陸上競技選手権少年の部に出場、砲丸(投げ)、円盤(投げ)の二種目に優勝するなど、身体能力を発揮して活躍した[17]。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。 1960年(昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し、日本プロレスに入団。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。デビュー後は、猪木の素質に目をつけたサニー・マイヤースからもトレーニングのオファーを受けた[18]。 ジャイアント馬場のデビューと同日の1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木完至として、東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)[19][20]。1962年(昭和37年)11月9日、沖縄県那覇市での長沢秀幸との試合において、リングネームをアントニオ猪木に改名[19]。このリングネームは、先輩レスラー豊登により後述の「死神酋長アントニオ」を経て命名。「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するためなど諸説ある[19]。なお、本名で活動中に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山は、その名を猪木のリングネームにしようとしたという[19]。 南米での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた(猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山の没後であった)。デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年(昭和38年)12月15日に死去。付き人としての期間は3年半だった[21]。 1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。西海岸、中西部、南部をサーキットし、2年後に帰国。この遠征中には、デューク・ケオムカと組んでテキサス東部版のNWA世界タッグ王座[22]、およびヒロ・マツダと組んでミッドアメリカ版の同王座を奪取している[23](同期の馬場はMSGのトップイベンターには起用されたものの、アメリカ修行中のタイトル戴冠は果たしていない)。ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座はエディ・グラハム&サム・スティムボートを破って獲得したものであり、東京プロレスと国際プロレスの合同興行においても、グラハム&ジョニー・バレンタインを相手に防衛戦が行われた[24]。なお、テキサスではジョー・ブランチャードを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得したともされるが、これは同じく同地区で「トーキョー・トム」を名乗っていたレイ・ウルバノとの混同である[25][26]。 1966年(昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、ジャイアント馬場や吉村道明らとの合同練習に参加するために立ち寄ったハワイにおいて、前年末に日本プロレスを退社し、極秘裏にハワイ入りしていた豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱(太平洋上の略奪)。帰国後の4月23日、自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表[24]。10月12日の旗揚げ戦でのジョニー・バレンタインとの試合で名声を得る。 しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる[27]。 1967年5月に日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、1967年10月31日、ジャイアント馬場とのタッグチーム「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。
プロフィール
生い立ち
プロレスラーとして
プロレスデビュー
アメリカ武者修行
東京プロレス
日本プロレス復帰
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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