アントニオ猪木対モハメド・アリ
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試合が行われた日本武道館

アントニオ猪木対モハメド・アリ(アントニオいのきたいモハメド・アリ)は、1976年(昭和51年)6月26日に行われた新日本プロレスの企画した「格闘技世界一決定戦」。日本プロレスラーであるアントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリによる異種格闘技戦で「世紀の一戦」とされた。試合会場は日本武道館
試合の実現モハメド・アリ

1975年(昭和50年)3月に、当時のWBAWBC統一世界ヘビー級チャンピオンだったアリは自民党国会議員日本レスリング協会会長八田一朗に「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?」と発言した。アリは大口をたたくことで有名で、当然この発言もアリ独自のリップサービスであることは世間も承知だった。アントニオ猪木

アリの発言を聞きつけた当時NET(現・テレビ朝日)の編成局長でスポーツ中継を多く手がけた永里高平は、アリとは当初高見山を対戦相手に画策し日本相撲協会と交渉をしていたが[1]、これを聞きつけた猪木は自分が名乗り出ることを永里に伝え、終生猪木を寵愛していた当時NET専務の三浦甲子二も、猪木でもいいのではと永里に案を振ったことで[2]、猪木が対戦相手に浮上した。三浦はプロレスファンには1983年の新日本プロレスのクーデター事件で猪木の復権をさせる鶴の一声をした人物として知られるが、資金面を含め多大な協力をし、政財界にも強い影響力を持ち、新日本プロレスと猪木、新間寿らのよき理解者であり、アリ戦実現にニューヨーク支局を担保に入れるなどまでして全面協力した。アリ戦の数日前には三浦は酔って猪木の家に上がり込んだあげく、猪木にマッサージさせたこともあり、美津子夫人は怒ったが、翌朝朝食を作って送り出してくれたという。この一件で三浦は猪木夫妻を気に入り、アリ戦後の借金も一部NETからの資金で肩代わりしてくれたという[3]

猪木は「100万ドルに900万ドルを足して1,000万ドル(当時のレートで30億円)の賞金を出す。試合形式はベアナックル(素手)で殴り合い。日時、場所は任せる」といった挑戦状をアリ側に送ったが、マスコミも現役のボクシング世界王者アリとプロレスラーが戦うなど実現は到底不可能と思っており、当初は冷めた反応だった。

しかし、この猪木の挑戦状に反応したアリは6月9日、マレーシアでのジョー・バグナーとの防衛戦前に東京に立ち寄り、会見を開いた。会見でアリは「猪木なんてレスラーは名前すら知らなかったが、相手になる。レスリングで勝負してやる」と発言、これにより半信半疑だったマスコミも一気に火がつき、新聞でも大きく取り上げられることとなった。ところが、ボブ・アラムを含めたアリのマネージャー群が、一連のアリの発言を撤回し、全てを白紙に戻してしまった。つまり世界的に有名なアリと知名度の低い日本のレスラーを戦わせるということなど、そう簡単に許可できるものではなかったのである。これに反発した猪木は、アリが逃げられないように外堀を埋めていった。10月に入るとアメリカヨーロッパのマスコミに対してアリ戦のアピール記事と写真を送りつけた。

これだけ反響が大きくなると、アリ側も猪木の挑戦を無視できなくなり、ニューヨークロサンゼルスにおいて猪木と極秘会談を行った。試合形式(15ラウンド制)、ギャラ、ルール問題が難航したが、ある程度まで交渉が進んで行き、1976年(昭和51年)3月25日にはニューヨークで調印式を行うこととなった。猪木は当時の妻・倍賞美津子を連れ、袴姿で調印式に登場した。

ギャラの問題は、1,000万ドルを譲らないアリ側と、600万ドルを提示する猪木側で折り合いがつかず、調印式当日まで揉めた。しかし最後はアリ本人が「600万ドルは飲めないが、600万ドル以上ならOKだ」と言い、結局610万ドルで双方とも合意に達した。この調印式でアリは、猪木の突き出た顎を指して「まるでペリカンのくちばしだ。お前のそのくちばし(顎)を粉々に砕いてやる」と挑発的な言葉を浴びせた。これに対して猪木は全く顔色を変えず、「私の顎は確かにペリカンのように長いが、鉄のように鍛え上げられている」と返答。更に「日本語をひとつ教えてあげよう。アリとは日本で虫けらを指す言葉だ」と言い返したところ、アリは激高し「ペリカン野郎め。今すぐ叩きのめしてやるぞ」と大声で叫んだ。

アリのギャラは興行収益の他にNET(現・テレビ朝日)、東京スポーツ社等、各方面から借金をしてアリに支払われる予定であった。試合前に180万ドル、試合後に120万ドル、クローズドサーキットの収入から310万ドル、合計610万ドルがアリのギャラとして予定された。ただし、最終的に興行が失敗に終わったため、実際に猪木側がアリ側に支払った金額は180万ドルに留まったとされている。

この一戦のプロモーターであった康芳夫は、アリとその陣営はプロレスを馬鹿にしていたというが[4]、アリはもともとプロレスファンであることが知られており、来日前の1976年6月10日、当時のビジネスの拠点だったシカゴでのAWAの興行において、猪木戦のプロモーションとしてバディ・ウォルフらを相手にミックスド・マッチを行ったこともあり[5]、プロレスというエンタテインメントの特性などは詳しく理解していた。しかし両陣営の話が互いに一方的な条件を出し合い譲ることなく、事前交渉が決裂した形になったともされる。当時レフェリー兼外国人プロレスラーの世話係の担当であったミスター高橋は後に自著でアリを崇高な人格者と表現した上で、その取り巻きの態度の悪さには怒りを露わにしている。高橋はそれらの件について猪木も腹に据えかねる思いであったろうと推察している。


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