アントニオ・ルナ
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この項目では、フィリピンの軍人について説明しています。スペインのサッカー選手については「アントニオ・ルナ (サッカー選手)」を、フィリピン海軍の同名フリゲート艦については「ホセ・リサール級フリゲート」をご覧ください。

アントニオ・ルナ(Antonio Luna de San Pedro y Novicio-Ancheta,1866年10月29日 - 1899年6月5日)は、フィリピンイロカノ族(英語版)の軍人、薬剤師。フィリピン初の軍事学校を創設し、米比戦争ではフィリピン第一共和国の最も優れた将校とみられている[1]フィリピン革命軍の指揮官アルテミオ・リカルテを引き継ぎ、ゲリラ軍ルナ狙撃隊(英語版)を組織した。またマニラ北部に建設したルナ防衛線は戦時中にアメリカ軍に苦戦を強いた[2]アントニオ・ルナ
経歴

アントニオ・ルナはマニラのビノンド、ウルビツトンドで7人兄弟の末子として生まれた。父親のホアキン・ルナ・デ・サン・ペドロは北イロコス州のバドック出身で、母親のロレアナはルナ出身のメスティーソであった[3]。父は政府専売商品の行商人で、兄にはマドリッドに留学した画家のフアン・ルナ、医者になったホセがいる[4]

アントニオは読み書きをマエストロ・イントンに習い、1593年に成立したカテキズムのドクトリナ・クリスチアナ(英語版)を暗記していたという[3]
スペイン留学とプロパガンダ運動

アテネオ・デ・マニラ大学に進学し、1881年に卒業した[3]。サント・トマス大学で文学化学薬学フェンシング西洋剣術を研究した。1890年に兄のフアンのいるスペインへ留学し、バルセロナ大学で修士号、マドリード・コンプルテンセ大学で薬学博士号を取得した[3]アントニオ・ルナとデ・レテ(中央)、ピラール(右)。1890年、スペイン

スペインでアントニオは在欧フィリピン人のプロパガンダ運動(英語版)に参加し、ガリカノ・アパシブル(英語版)が代表をつとめる雑誌『ラ・ソリダリダッド(英語版)』に「印象」を寄稿し、スペインの習慣と特異性について論じた。また、他の多くの在スペインフィリピン人の自由主義者と同様にフリーメイソンに加盟し、第3階級マスターメイソンまで昇進した[3]

1893年にはマラリア研究の著作を発表後、スペイン政府の援助でベルギーとフランスで研究助手を務めた[3]
革命運動への参加

1894年、アントニオはフィリピンに帰国し、マニラ市立研究所所長となった[4]。マニラでは兄のフアンとフェンシング道場を開いた[3]。在欧時代にはアントニオは、他のフィリピン人留学生のようにフィリピンは独立革命よりも穏健な改革の方が好ましいと考えていた[4]。しかし、アンドレス・ボニファシオらの独立運動カティプナンが1896年8月に情報をリークされると、ルナ兄弟は逮捕されフォートサンチャゴに収監されると、革命運動に関わるようになった[4]。一ヶ月後、ホセ・リサールと兄フアンは釈放されたが、アントニオは翌1897年、スペインに国外追放され、カルセル・モデロ・デ・マドリッドに収監された[3]。兄フアンはスペイン王妃にアントニオの釈放を嘆願するなどし、その尽力でアントニオの軍事最高法廷でも裁判は却下され、釈放された[4]。アントニオはフィリピン独立革命の第一段階がビアクナバト協定(英語版)に終わったことの失敗を後悔し、アギナルドの帰りを待って合流し、第二革命を準備した。後にリエージュ要塞将校となったジェラール・リマン(英語版)の下でアントニオはゲリラ戦や要塞戦術など軍事戦術を学んだ[5]

香港でアントニオはアギナルドから推薦状を、フェリペ・アゴンシロ(英語版)から回転式拳銃を受けとり、1898年7月にフィリピンに帰国した[5]
米比戦争Antonio Luna, The Fiery General

アントニオは1898年8月13日、アメリカ軍がパシッグ川とマニラ湾に面したイントラムロス地区に上陸するのを目撃した。1898年6月からマニラは革命軍に完全に包囲されており、ルキアノ・サン・ミゲル大佐はマンダルヨンを制圧、ピオ・デル・ピラール(英語版)将軍はマカティを、マリアノ・ノリエル(英語版)将軍はパラニャーケを制圧し、グレゴリオ・デル・ピラール(英語版)はサンパロックを進軍した。アントニオはフィリピン軍はイントラムロス地区を占領すべきだと考えたが、アギナルドは、アメリカ海軍アジア方面戦隊司令官ジョージ・デューイの忠告に注意したため、アントニオを塹壕に派遣し、部隊を指示するよう命じた。アメリカ軍の占領の混乱が過ぎると、アントニオはアメリカ軍の無秩序についてアメリカ軍将校に不平を述べるようになった[4]

アギナルドはアントニオを1898年9月26日、軍事作戦長として准将に任命した。アントニオは官僚としての地位を得たという気休めよりも、熱気ある不幸な若者の部隊を正規軍として組織することに専念した[4]。1898年10月には軍事学校アカデミア・ミリタールをマロロス市内に創設し、1896年のフィリピン独立革命で活躍した軍隊の訓練を行った。ホセ・アレヤンドリノ(英語版)将軍の協力もあり、また兄であるフアンは学校の制服であるラヤデロ(英語版)をデザインした。アントニオは厳しい規律を重視し、忠誠を重んじた[5]。しかし、この学校は米比戦争の勃発によって活動の中断を余儀なくされた[4]

また、アントニオは民族意識の覚醒がフィリピン人の強化につながると考え、4ページの日刊紙新聞ラ・インデペンデンシアを1898年9月に刊行した[5]

1898年12月10日にスペインとアメリカがパリ条約に調印したとき、アントニオは軍事行動のみが祖国を救済することができると確信した。アメリカ軍の増援部隊が上陸する前にトラップをしかけ、ルソン島北部に要塞を築くよう提言したが、フィリピン政府高官はアメリカがフィリピン独立に協力すると信じていたため、これを拒否した[5]


1899年2月4日、フィリピン将校たちがマロロス市でアメリカの反スペイン帝国主義への攻撃が成功したことを祝して祝賀会を開いていたところ、アメリカ軍はバルサハン橋付近のコンクリート製の要塞での銃撃事件に対応していた[6]。アメリカ軍警備隊がフィリピン軍に発砲し、アメリカ軍は最初に発砲したのはフィリピン側だと主張したことから、パセイからカローカンまでの地域での戦闘マニラの戦いへと発展した。2日後、事変発生をうけてアメリカ合衆国上院はフィリピン併合案を可決したことで、アントニオがアギナルドらに警告していた通りの事態になった[5]


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