アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ
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アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ

本名アントニオ・ホドリゴ・コヘイア・ノゲイラ
(Antonio Rodrigo Correia Nogueira)[1]
生年月日 (1976-06-02) 1976年6月2日(47歳)
出身地 ブラジル
バイーア州ヴィトリア・ダ・コンキスタ
通称ミノタウロ (Minotauro)
柔術マジシャン
リオの沈まぬ太陽
千の技を持つ男
ビッグ・ノグ (Big Nog)
国籍 ブラジル
身長191 cm (6 ft 3 in)
体重112 kg (247 lb)
階級ヘビー級
リーチ198 cm (78 in)
スタイルブラジリアン柔術
柔道
ボクシング
チームブラジリアン・トップチーム
ブラック・ハウス
チーム・ノゲイラ
トレーナーヒカルド・デラヒーバ(柔術)
ルイス・カルロス・ドレア(ボクシング)
ランクブラジリアン柔術(黒帯五段)
柔道(黒帯)

総合格闘技記録
試合数46
勝利34
ノックアウト3
タップアウト21
判定10
敗戦10
ノックアウト3
タップアウト2
判定5
引き分け1
無効試合1
その他
著名な親族アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ(弟)
著名な弟子アンデウソン・シウバジョゼ・アルドジュニオール・ドス・サントスリョート・マチダパトリシオ・ピットブルパトリッキー・ピットブル
総合格闘技記録 - SHERDOG
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アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ(Antonio Rodrigo Nogueira、1976年6月2日 - )は、ブラジルの元男性総合格闘家柔術家バイーア州ヴィトリア・ダ・コンキスタ出身。チーム・ノゲイラ主宰。元PRIDEヘビー級王者。元UFC世界ヘビー級暫定王者。UFC殿堂入り。

PRIDEでは総合格闘技における柔術の技術の高さや極めの強さから「柔術マジシャン」や「千の技を持つ男」と称され、エメリヤーエンコ・ヒョードルミルコ・クロコップと共にPRIDEヘビー級三強の一角を担った。無尽蔵のスタミナと驚異的なタフネスを持ち、どんなに劣勢に立たされても折れることのない不屈の精神力は多くのファイターや格闘技ファンからリスペクトされていた。また、寝技だけでなくスタンドでもハイレベルなボクシングテクニックを誇り、00年代半ばには数少なかったコンプリートファイターの一人であった。

一卵性双生児の弟アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラも総合格闘家である。
来歴
幼少期から総合デビューまで

1976年ヴィトリア・ダ・コンキスタで農場を営む家庭に生まれる。4歳から柔道を始め、10代半ば頃にはブラジルのボクシングオリンピックコーチのルイス・カルロス・ドレアからボクシングを学んでいた[2]。11歳の頃[3]、トラックの下敷きになるという事故で両肺が潰れ、肋骨1本と肝臓の一部を失う大怪我を負い、丸4日間生死の境を彷徨う。当時の医者には2度と歩けなくなるとまで宣告されたが、懸命のリハビリによって回復した。背中の右肩甲骨下に大きく凹んだ傷跡がその事故の名残りである。

1993年、アメリカで開催されたUFCでのホイス・グレイシーの活躍に憧れ、17歳の時ヒカルド・デラヒーバの弟子ギリェルメ・アサッドのもとでブラジリアン柔術を始め、その後はデラヒーバに直接師事した。

1999年1月、パンアメリカン柔術選手権に出場し、茶帯ペサディシモ(+97kg)級で優勝、またアブソルート(無差別)級では決勝でジヴァニウド・サンターナを下し2冠を達成し、22歳でデラヒーバからブラジリアン柔術黒帯を授与された。

その後アメリカに移住し、パンアメリカン選手権の活躍により総合格闘技団の体WEFにスカウトされ[3]、1999年6月12日、WEF 5のデビッド・ドッド戦でプロ総合格闘技デビュー。

1999年7月には世界柔術選手権に出場し、黒帯無差別級でベスト4に進出するも、準決勝でホベルト・"ホレッタ"・マガリャエスに敗れている。また、この年に柔道の黒帯も取得している[4]
リングス

1999年10月28日、リングスで開催された「KING of KINGS 1999トーナメント」出場のために初来日。KOKトーナメントの1回戦でヴァレンタイン・オーフレイムにV1アームロック、2回戦でコーチキン・ユーリに腕ひしぎ十字固めで勝利し、準決勝へ進出した。

2000年1月15日、ジョージア州のロームフォーラム・シビックセンターで行われたWEF 8のWEFヘビー級王座決定戦で、ジェレミー・ホーンと対戦し、判定勝ちを収め王座獲得に成功した[5]

2000年2月26日、リングスのKING of KINGS 1999トーナメントの準々決勝でアンドレイ・コピィロフに判定で勝利するも、準決勝のダン・ヘンダーソンとの対戦では、延長ラウンドで数度のテイクダウンを奪い、かつマウントポジションを何度も取る等、終始優勢に試合を運んだにもかかわらず、審議委員判定によって敗れた[3]。試合後、ノゲイラの部屋にヘンダーソンからビールが1ダース届けられた[3]

2000年3月、第3回アブダビコンバット99kg超級に出場。1回戦でショーン・アルバレスにポイント勝ちするものの、2回戦でリコ・ロドリゲス膝十字固めで敗退した。
KOKトーナメント 2000 優勝

2000年10月9日、「RINGS KING OF KINGS 2000トーナメント」に出場し、1回戦でラバザノフ・アフメッド、2回戦で田村潔司にいずれも腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収め準々決勝に進出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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