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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はデ・スクレ、第二姓(母方の姓)はカルカラです。
アントニオ・ホセ・デ・スクレ
Antonio Jose de Sucre
ボリビア
第2代 大統領
任期1825年12月29日 – 1828年4月18日
ペルー
軍司令官
任期1823年6月23日 – 同7月17日
出生1795年2月3日
ベネズエラ総督領
アントニオ・ホセ・デ・スクレ・イ・アルカラ(Antonio Jose de Sucre y Alcala, 1795年2月3日 - 1830年6月4日)は、南アメリカの諸国をスペインから独立に導いた軍人、政治家。第2代ボリビア大統領。初代はシモン・ボリバルが名目的な立場のみだったので、事実上の初代大統領であり、またボリバルの部下かつ良き理解者としても知られる。
ベネズエラ東部のクマナで生まれ、スペイン領アメリカの独立戦争の勃発とともに独立派の軍に入り、士官としてベネズエラ東部で戦歴を重ねた。1819年に准将になり、1820年にはスペイン軍とコロンビア(大コロンビア)軍の休戦にあたって戦争規制条約を結んだ。1821年にエクアドルの独立派の救援に赴き、翌年ピチンチャの戦い(英語版)でこの地のスペイン軍を破った。1823年からはペルーの独立派を援け、1824年にアヤクーチョの戦い(英語版)で南米独立戦争の最終的な勝利を決した。この戦功で大元帥になった。ボリバルとともにボリビアの建国にあたり、1826年から1828年まで同国の大統領を務めた。1828年に当時コロンビア領だったキトに住み、ペルー軍の侵攻をタルキの戦い(英語版)で阻止した。1830年にコロンビアの国会議長になったが、同年に暗殺された。 1795年、スペイン領ベネズエラ総督領
生い立ちとベネズエラ東部戦線
1811年にスペインに対する独立戦争が起きると、15歳で独立軍に参加した。すぐに中尉になり、フランシスコ・デ・ミランダの下で戦った。ミランダが敗れると、クマナ経由でイギリス領のトリニダード島に逃れた(トリニダードはベネスエラ沖合い12kmの島で、1798年まではベネスエラ総督領の管轄するスペイン領だった)。
1813年にグイリアへの上陸に加わり、翌年サンティアゴ・マリニョの指揮下でボカチカの戦いに参加した。1月に中佐に昇進してボリバルの指揮下で第一次カラボボ会戦、ラプエルタの戦いを経験した。次いでベルムデスの指揮下でウリカの戦いに加わったが、敗れてマルガリータ島に退き、さらに再びイギリス領に逃げた。1815年にベルムデスに従ってカルタヘナに上陸したが、同年中に敗れてハイチに逃れた。ここまでの戦いの中で、王党派はスクレの2人の兄弟を捕らえて銃殺した。
1816年にふたたびグイリアに上陸し、大隊長を経て、マリニョの参謀長になった。