アントニオ・デ・メンドーサ
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はメンドーサ、第二姓(母方の)はパチェコです。アントニオ・デ・メンドーサ

アントニオ・デ・メンドーサ・イ・パチェコ(Antonio de Mendoza y Pacheco、1490年 - 1552年7月21日[1])は、初代ヌエバ・エスパーニャ副王(在職期間1535年 - 1550年)であり、第2代ペルー副王1551年 - 1552年)でもあった。

第5代ヌエバ・エスパーニャ副王のロレンソ・スアレス・デ・メンドーサはアントニオのまたいとこにあたる[2]
生涯

メンドーサは今のスペインカスティーリャ・ラ・マンチャ州グアダラハラ県モンデハル(英語版)に生まれたが、アルカラ・ラ・レアルあるいはバリャドリードの生まれとする文献もある[1]。メンドーサ家 (House of Mendoza) はスペイン有数の貴族の家柄であり、曾祖父の初代サンティジャーナ侯爵イニゴ・ロペス・デ・メンドーサ (Inigo Lopez de Mendoza, 1st Marquis of Santillana) はルネサンス詩人として知られる。父親の初代モンデハル侯爵イニゴ・ロペス・デ・メンドーサはグラナダ王国の征服に参加し、グラナダ総監およびアルハンブラ宮殿の城代 (es:alcaide) をつとめた[3]。1515年に父が没すると、兄のルイス・ウルタードが総監の職をついだ[1]

翌年国王フェルナンドが没して後継問題が発生すると、メンドーサ家はカルロス(後の神聖ローマ皇帝カール5世)を支持した[1]。アントニオ・デ・メンドーサは1526年以来カルロス王と面識を持ち、その外交使節としてヨーロッパ各地を訪問した[1]。1528年にはレオン州(今のエストレマドゥーラ州に相当)の総督に任命された[1]
ヌエバ・エスパーニャ副王

イサベル王妃は早くからアメリカに副王を立てる意向を持っていたが、カルロスの皇帝戴冠式(1530年)などのために遅れた[1]。メキシコ司教フアン・デ・スマラガからの報告によってイサベルは1531年に再びヌエバ・エスパーニャ副王を任命しようとしたが、実際にカルロス王がメンドーサを副王に任命したのは1535年4月17日のことだった[1]。メンドーサは同年11月14日にメキシコシティに入った[1]

当時のヌエバ・エスパーニャにはエルナン・コルテスヌエバ・ガリシアヌーニョ・デ・グスマンユカタンフランシスコ・デ・モンテーホグアテマラペドロ・デ・アルバラードがいて、しばしば対立しあっていた[1]

メンドーサの重要な任務のひとつに探検があった[4]。メンドーサは北西にあるというキビラやシボラの町の噂を聞き、1539年にハリスコ総督フランシスコ・バスケス・デ・コロナドに探検を依頼した[1]。また大西洋と太平洋を結ぶ伝説のアニアン海峡を発見するためにフアン・ロドリゲス・カブリリョを派遣した[1]。彼は今のカリフォルニア州を初めて訪れた西洋人になった。またルイ・ロペス・デ・ビリャロボスに太平洋の探検を依頼し、彼は今のフィリピンに到達した[1]

メンドーサは学校、新しい道路、病院を設立した[1]。農業の振興も行った[4]。1536年には司教フアン・デ・スマラガと共同でトラテロルコに先住民貴族の子弟を教えるための教育機関であるコレヒオ・デ・サンタクルスを設立した[1][4]。1551年には聖職者を養成するための王立・教皇庁立メキシコ大学(メキシコ国立自治大学の前身)が設立された[4]。1541年には西部の領土を統一するためにバリャドリード(今のモレリア)を建設した[5]

メンドーサの治世には先住民の多くの抵抗活動もあった。スペインによるユカタン半島の植民地化は大きな抵抗にあったが、平定されて1542年にティホ(今のメリダ)が作られた[1]。1540年にはヌエバ・ガリシアでミシュトン戦争が発生したが、メンドーサ自身が大軍を率い、1541年末に反乱は完全に鎮圧された[6]

1542-1543年にバルトロメ・デ・ラス・カサス新法が制定されると、奴隷所有の権利を失うことになるエンコメンデロによる騒ぎが起きた。メンドーサは新法の施行を差し止め、ラス・カサスの試みは失敗に終わった[1]。1545年に王室は新法を改訂することになった[4]


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