アントニオ・グテーレス
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はデ・オリヴェイラ、第二姓(父方の姓)はグテーレスです。

ポルトガル政治家アントニオ・グテーレスAntonio Guterres
2023年
生年月日 (1949-04-30) 1949年4月30日(75歳)
出生地 ポルトガル リスボン
出身校高等工科大学
所属政党社会党
配偶者ルイーザ・ギマリャンイス・エ・メロ(1972?1998)
カタリーナ・バス・ピント(2001? )
子女1男1女
サイン
公式サイト ⇒Antonio Guterres
国際連合
第9代 事務総長
在任期間2017年1月1日 - 現職
副事務総長アミナ・モハメド
第10代 国連難民高等弁務官
在任期間2005年6月15日 - 2015年12月31日
事務総長コフィー・アナン
潘基文
ポルトガル共和国
第114代 首相
在任期間1995年10月28日 - 2002年4月6日
大統領マリオ・ソアレス
ジョルジェ・サンパイオ
社会主義インターナショナル
第7代 議長
在任期間1999年11月10日 - 2005年6月15日
社会党
第6代 書記長
在任期間1992年2月23日 - 2002年1月21日
大統領マリオ・ソアレス
ジョルジェ・サンパイオ
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アントニオ・マヌエル・デ・オリヴェイラ・グテーレス(ポルトガル語: Antonio Manuel de Oliveira Guterres [???t?nju ?u?t????]、1949年4月30日 - )は、ポルトガル政治家。第114代ポルトガル首相社会主義インターナショナル議長、欧州理事会議長、第10代国際連合難民高等弁務官を歴任した後、2017年から第9代国際連合事務総長を務める[1]。日本の報道では「グテーレス」をグテレスと表記するものもある[2]
来歴
教育者

ヴィルジーリョ・ディアス・グテーレスとイルダ・カンディーダ・デ・オリヴェイラの子として、リスボンで生まれた。高等工科大学 (IST)(英語版)で物理学電気工学を学び、1971年に修了。助教として学問の世界に入った。
政治家

1974年に社会党に入党し、政治と関わりを持った。それから間もなく学界を退き、政治活動に専念するようになった。1974年4月25日のカーネーション革命マルセロ・カエターノ政権が崩壊してからは、主にリスボン地区で社会党の組織化に深く関与した。グテーレスは党の首脳の一人となり、次の役職を歴任した。

産業大臣室長(1974年、1975年)

リスボン、のちカステロ・ブランコ選出の国会議員(1976?1995年) この間、複数の国会の委員会に所属した。

社会党国会議員団長(1988年) ジョルジェ・サンパイオの後任

1992年に社会党の書記長と、アニーバル・カヴァコ・シルヴァ政権下の野党院内総務に就任。1992年9月には社会主義インターナショナルの副議長に任命された。

カヴァコ・シルヴァの退任を受けた1995年の総選挙で社会党が比較第一党になると、首相に就任して第1次内閣を組織した。政権では新自由主義経済の継続を敢行。1999年の総選挙もなんとか乗り切り第2次内閣を組織。在任中、ポルトガルに対する世界の注目度を高めた1998年のリスボン国際博覧会の誘致に尽力し、1999年に中華人民共和国へのマカオ返還も行った[3]社会主義インターナショナル議長在任時

2000年1月から7月には欧州理事会議長も兼務した。しかし、首相としての二期目は苦しい時期となった。経済の低迷とヒンツェ・リベイロ橋崩落事故(英語版)の影響に加えて、党内対立がグテーレスの権威と人気を揺るがした。

2001年12月の地方選挙で、社会党は大敗を喫した。これを受けてグテーレスは「国を政治的な泥沼に陥れないため、職を辞す」と表明し、辞任した。ジョルジェ・サンパイオ大統領は国会を解散し、選挙を求めた。当時社会保障相だったエドゥアルド・フェーロ・ロドリゲス(英語版)が社会党の代表となったが、総選挙で社会党は敗れ、首相職を社会民主党のジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ(後の欧州委員会委員長)に明け渡した。グテーレスはポルトガルの政治から退き、2005年まで社会主義インターナショナルの議長を務めた。
国連難民高等弁務官

2005年5月の国連総会で、グテーレスは国連難民高等弁務官に選任された。2007年2月16日のナショナル・パブリック・ラジオによるインタビューでは、イラクの難民が直面している苦境について、1948年以降の中東で発生した最大の難民危機のひとつであると述べた。あまり一般に知られていない難民危機として、グテーレスは中央アフリカ共和国コンゴ民主共和国における危機を挙げた[4]。2011年にシリア内戦が発生すると、それによって生じた難民に対する国際的な支援を確保するために尽力した。弁務官時代には経費のかかるジュネーヴ本部の職員数を3分の2に削減し、その分現場により多くの人員を投入した[5]。2015年12月31日に難民高等弁務官を退任。
国連事務総長

こうしてグテーレスは国連を去ったものの、2016年は年末で潘基文の国連事務総長としての任期が満了することもあって、ポルトガル政府から支持を取り付けたグテーレスはやがて次期事務総長の最有力候補と目されるようになっていった[6][7][8]。2016年10月6日、国連安全保障理事会は次期国連事務総長としてグテーレスを国連総会に勧告する決議を採択[2]。この安保理の勧告を受け、総会は13日にグテーレスを次期事務総長に任命することを採決した。こうしてグテーレスは年明けの2017年1月1日に事務総長に就任した[9][10]


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