アントニオ・ガウディ
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はガウディ、第二姓(母方の)はコルネーです。

アントニ・ガウディ
ガウディ、1878年(ポー・オードゥアール撮影)
生誕 (1852-06-25) 1852年6月25日
カタルーニャ州, カタロニア
死没 (1926-06-10) 1926年6月10日(73歳没)
カタルーニャ州, カタロニア, バルセロナ
国籍 カタルーニャ州
出身校バルセロナ建築高等技術学校
職業建築家

建築物サグラダ・ファミリア

アントニ・ガウディ(カタルーニャ語 :Antoni Gaudi i Cornet [?n?toni g?u??di i ku??n?t]、洗礼名:Antoni Placid Guillem Gaudi i Cornet、1852年6月25日 - 1926年6月10日)は、スペインカタルーニャ出身の建築家19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモアール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)・グエル公園(1900 - 1914年)・カサ・ミラ(1906 - 1910年)をはじめとしたその作品はアントニ・ガウディの作品群として1984年ユネスコ世界遺産に登録されている。

スペイン語(カスティーリャ語)表記では、アントニオ・ガウディ(Antonio Gaudi y Cornet、Antonio Placido Guillermo Gaudi y Cornet)。
生涯
誕生

アントニは、1852年6月25日午前9時半[1]カタルーニャ地方のタラゴナ県に、父フランセスク・ガウディ・イ・セラと母アントニア・クルネット[2]・イ・ベルトランの5人目の子として生まれた。一家の次女マリアと長男のフランセスクはそれぞれ幼くして亡くなったため、三男アントニは長女のローザ、次男のフランセスクとの3人姉弟の弟として成長した。

ガウディの出生地とされる場所には、レウスとその近郊の村リウドムス(Riudoms)の2箇所がある。レウス説は、洗礼を受けた聖ペラ教会の台帳や学校に提出された書類に基づくものである。その一方で、ガウディはリウドムスのマス・デ・ラ・カルデレラ(Mas de la Calderera)で生まれ、洗礼をレウスで行なったとも伝えられている[3]

ガウディ家の先祖は17世紀初頭にフランス、オーヴェルニュ地方からリウドムスへやってきた。リウドムス出身の父フランセスクは、銅板を加工して鍋や釜を作る銅細工師であり、「銅細工師の家」の意味をもつマス・デ・ラ・カルデレラは彼の仕事場であった。ガウディは父方・母方ともに銅細工職人という家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地となったと考えていた[4]
幼少時代

一家は母アントニアの出身地であるレウスで暮らした。ガウディはラファエル・パラウの小学校に入学、その後、フランセスク・バランゲー(フランシスコ・ベレンゲール)の学校に移った[5]。バランゲーには同じ名前をもつ息子がおり、のちにガウディの助手となる。

ガウディは6歳になるまでにリウマチにかかり、痛みのひどい時にはロバに乗って移動することもあった。病弱だったため、他の子どもたちと同じように遊ぶことは難しかったが、この頃にクリスマスの飾りのために紙細工で風変わりな家を作っていたという逸話がある。また、授業で鳥の翼は飛ぶためにあると説明した教師に対し、鶏は翼を走るために使っている、と反論したという話は、幼いガウディが自らの周囲にある物の造形をよく観察していたことを示すエピソードとして知られる[6]。後年、ガウディは自然を「常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物である[7]」と語っている。

1863年、ガウディは貧しい家庭の子弟のために設立されたピアリスト修道会の学校に入学する。この学校でガウディはエドワルド・トダ・イ・グエイ(エドゥアルド・トダ・イ・グエル)とジュゼプ・リベラ・イ・サンス(ホセ・リベラ・イ・サンス)という友人を得る。トダの回想によれば、3人が発行した雑誌『エル・アルレキン』(「アルレッキーノ」の意)でガウディは挿絵を担当し、学校演劇の際には大道具や小道具を制作した。当時のガウディの絵にはレウス出身でイタリアで活躍した画家マリアノ・フォルトゥーニの影響が指摘されている[8]

ガウディ、トダ、リベラの3人はレウスに近いタラゴナのローマ遺跡やポブレー修道院への小旅行もしてい。特に当時、廃墟となっていたポブレー修道院については、トダが中心になって作った修復計画が立てられ、水彩で描かれた概略図が残っている。ポブレー修道院へガウディたちが足を運んだ時期については、1867年と1869年の2つの説がある。修復計画においてガウディが設計を担当したとも言われるが、実際にはトダが大半の作業を行ない、ガウディはそれに賛意を示したものと考えられている[9]

タラゴナのローマ遺跡(世界遺産)と地中海

ポブレー修道院(世界遺産)

学生時代

1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナ建築高等技術学校建築を学んだ[10]。学校では、歴史や経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、ヴィオレ・ル・デュクの建築事典を友人から借りて熱心に読んでいたとも伝えられる。また、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働き、バルセロナのシウタデラ公園の装飾やモンセラートの修道院の装飾にもかかわった。
建築家

ガウディの処女作は未完のものも含めると1867年ごろの産業コロニアだといわれている。この仕事でマタロ協同組合の教師ペピタと知り合った。これが初恋であった。しかし、成婚に至らず、その後一生独身であった[11]。1878年4月に建築士の資格を取得している。当時のバルセロナ建築高等技術学校校長で建築家のアリアス・ルジェン(エリアス・ロジェント、Elies Rogent)は、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう」と言ったと伝えられる[12]。同年、ガウディはパリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のためにショーケースをデザインした。この作品を通じてガウディの才能を見初めたのが、繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエル(エウゼビ・グエイ)侯爵であった。グエル侯は、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援し、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼した[13]。1883年、ガウディは、サグラダ・ファミリア教会の専任建築家に推薦され、就任する。

シウタデラ公園欄干の装飾

モンセラート修道院

前半生の主な作品

太字で示したものは、アントニ・ガウディの作品群として世界遺産に登録されている。

年名称所在地備考
1878-79レイアル広場の街灯バルセロナ


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