アントナン・アルトー
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アントナン・アルトー(Antonin Artaud、1896年9月4日 - 1948年3月4日)は、フランスの俳優・詩人・小説家・演劇家。
生涯

スミルナ(現在のイズミール)出身のギリシャ人の両親の元、マルセイユで生まれる[1]。幼少に罹患した髄膜炎の後遺症の痛みに耐えるために一生阿片などの麻薬を服用し続けた。1920年ごろから俳優活動をはじめ、また詩も始める。1924年シュルレアリスム運動に加わるも、ブルトンと衝突。(第三インターナショナルとシュルレアリストたちの統合に猛反発したことが要因となり、1928年、除名された[2]。その後、バタイユやルネ・クルヴェルなども除名。『NRF』誌のリヴィエールとの交信は有名。アルフレッド・ジャリ劇場を創設し、身体演劇である「残酷劇」を提唱。現代演劇に絶大な影響を与える。

1920年代後半には映画に関わる仕事が続く。アベル・ガンス監督の超大作映画『ナポレオン』(1926年)出演(ジャン=ポール・マラー役)に続いて、サイレント映画の最高峰と評されるカール・ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ』(1927年)に出演(修道士ジャン・マシュー役)。また同じ時期にジェルメーヌ・デュラック監督『貝殻と僧侶』(1927年)の脚本を書いているが、実質は映画の現場にも参加させて貰えず、脚本も監督に書き変えられている。

1936年、アイルランドの地に聖パトリックの杖を還すという目論見のもと、アイルランドを目指すが、道中に警察官に拘束され、統合失調症と診断され精神病院に収監され、フランスに強制送還される。ジャック・ラカンやガストン・フェルディエールの診察を受けて、サンタンヌ病院、ル・アーヴル病院、イヴェール病院、ロデーズの病院を盥回しにされ、51回もの電気ショック療法を受け、9年間収容されることになった。

作家で編集者のジャン・ポーランはアルトーの生前にアルトー全集を企画し、出版を成功させた功績は大きい。それどころか、経済的な支援だけでなく、阿片の治療代まで支払っていた。また、ポール・デヴナンはその仕事を手伝った。

1946年5月、ロベール・デスノスを筆頭に友人らの助力で退院する。退院した直後は母親の顔さえ分からないほど錯乱していた。後に、その当時の体験を告発した。『ヴァン・ゴッホー社会による自殺者』でサント=ブーヴ賞受賞。しかし、ジャック・ラカンは精神分裂病(統合失調症)と診断し、2度と書けることはないだろうと診断した。(その一方で、アンドレ・ブルトンは全く異論の余地のないきわめて明晰なテキストと称賛した)。その思想はドゥルーズガタリデリダに影響を与えた。その演劇論はピーター・ブルックらに受け継がれる。

哲学者のジャコブ・ロゴザンスキーは、2023年の講演で、「アルトーは狂人であったから書けたわけではなく、狂人であったにもかかわらずなのだ」と発言している。

後期の作品の紹介は圧倒的に少なく、アルトー後期集成(河出書房新社)や『アルトーコレクション』1?4。最も難解なのは、退院後の『アルトー・コレクション』V 『カイエ』 (月曜社)唯一晩年に書物として構成されたアルトー・コレクションW『手先と責苦』(月曜社)の訳はあるが、概ねアルトーの編集者であるグロスマンによる一刊選集が底本になっており、膨大なテキストがいまだに残されている。

例えば、晩年1年間だけで書いた、1947年2月から、イブリーの療養所で書いた約1年間のテキストだけで4000ページもの文量があり、その内容は主語と目的語、補語、修飾語などが普通の文体とは到底言えないだけでなく、独自の造語も含まれていて、いまだ謎のままである。また、造語や音感だけの造語や他の言語を変形させたものなど、研究者たちも極めて難解だとの意見で一致している。

1948年3月4日、パリ郊外イブリーの療養所にて死去。満51歳没。ベッドに腰掛けたまま亡くなっていた[3]


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