アントウェルペン
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アントウェルペン
Antwerpen
Anvers

アントウェルペン市街


基礎自治体基礎自治体

位置

アントウェルペン州におけるアントウェルペンの位置

ベルギー内のアントウェルペン州の位置

座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度13分 東経4度24分 / 北緯51.217度 東経4.400度 / 51.217; 4.400
行政
ベルギー
 地域 フランデレン地域
  アントウェルペン州
 行政区アントウェルペン行政区
 基礎自治体アントウェルペン
地理
面積 
  基礎自治体域204.51 km2
人口
人口(2020年1月1日現在)
  基礎自治体域527,763人
    人口密度  2,581人/km2
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号2000-2660
市外局番03
公式ウェブサイト : ⇒http://www.antwerpen.be/
グローテ・マルクトのアントウェルペン市庁舎 (Stadhuis van Antwerpen)ハントシェーンマルクトの聖母大聖堂低地地方最大の大聖堂であり、ルーベンス三連祭壇画がある。現在も市内最大の建造物運河に架かる橋

アントウェルペン(オランダ語: Antwerpen [??nt??rp?(n)] ( 音声ファイル), フランス語: Anvers [??v??(s)], 英語: Antwerp [?antw?rp], ドイツ語旧称: Antorf, Antorff)は、ベルギーフランデレン地域アントウェルペン州の州都である。首都ブリュッセルに次ぐ同国第2の都市で、都市圏人口は約120万人。市としては最多の人口を持ち、2020年1月1日の総人口は52万7763人。面積は204.51 km2, 人口密度は2581人/km2である[1]

オランダロッテルダムと共に欧州を代表する港湾都市の1つ[2]
名称

英語名に由来するアントワープや、フランス語名に由来するアンヴェルス(アンベルス)[注釈 1]も日本語の表記においてよく用いられる。
名前の由来

街の名称は、古くは巨人アンティゴーンと英雄ブラボーの伝説に由来するとされてきた。スヘルデ川の川岸の城に住む巨人ドルオン・アンティゴーンは、城付近を通り過ぎる船に通行料を求め、それに応じない者に対しては、その手を切り落として河へ放り捨てた。しかし、ついにローマの戦士ブラボーがアンティゴーンの息の根を止め、手を切り落として河へ投げ捨てた。Antwerpen はこの出来事に由来し、handwerpen(hand 手 + werpen 投げる)が元になっているという[3]。現在のアントウェルペン市庁舎前には、この伝説を主題とする記念碑「ブラボーの噴水」がある。これは民間語源であるものの、手を切断することは実際に当時のヨーロッパで行われており、中世には死者の右手が切断され、「死手譲渡」の証拠として封建領主に送られることもあった。

しかし、19世紀の歴史家・外交官ジョン・ロスロップ・モトリーは、アントウェルペンという名称を「an 't werf (on the wharf、wharfは波止場)」、または「Aan 't werp(at the warp)」に由来するという議論を展開した。ここでの「warp」とは、高潮でも農地が水浸しにならないだけの土手を築いたことを指しており、農民たちは堤防の先に農地を広げていった。「werp」という語には「pol(ポルダー、干拓地)」という意味もある。

現在最も有力な説は、ガロ・ローマ文化期のラテン語「antverpia」であり、アントウェルペンはかつてのスヘルデ川の湾曲にそって形成されたとする。この語は「Ante」(before)と「Verpia (砂などの粒子が水などによって堆積、沈殿したもの)」に由来しており、スヘルデ川の湾曲に伴う堆積作用によって土地が形成されていったことを示している。ただし、スヘルデ川は7世紀から8世紀半ば頃に流れが変わっており、かつての流域は、街の南部にある現在の環状道路とほぼ一致していると考えられる。[4]
地理
地勢

スヘルデ川の右岸に位置する。スヘルデ川はオランダ南西部ゼーラント州の西部スヘルデ河口域 (Westerschelde) を経て北海につながっている。アントウェルペンには大きな正統派ユダヤ人ハレーディー)のコミュニティがあり、そこから「西のエルサレム」との綽名がある。ダイヤモンド研磨用の円盤 (Scaif) を発明したローデウィク・ファン・ベルケン (Lodewyk van Berken) もユダヤ系ベルギー人であり、この発明によってユダヤ人のダイヤモンドカット職人が多くなり、町もダイヤモンド取引およびカット・研磨の中心として著名になった。

1990年代からはファッションの街としても名がある。これは王立美術学校の何人かの卒業生がモード界で国際的な成功を収めたことに起因する。

アントウェルペン動物園(英語版)は1843年開園で、世界でも最古また最も有名な動物園のひとつである。この動物園は市の中心部にあり、4,000種以上の動物を飼育している。王立動物学協会は多くの動物の扱いを見守っており、100年以上に渡って絶滅危惧種の保護にあたってきた。

行政区区域

行政区域としてのアントウェルペンは9つの地区からなる。
アントウェルペン

ベルヘム

ベーレンドレヒト=ザントフリート=リロ

ボルヘルハウト

デールヌ

エーケレム

ホーボーケン

メルクセム

ウィルレイク

人口

1806年から1970年までは12月31日における人口、1980年からは1月1日における人口。

1923年:ブルホトとツワインドレヒトがアントウェルペンに合併された (市域は+11,77 km2、住民は+2.426人)

1929年:
オールデレン、オーステルウィール、ウィルマースドンクがアントウェルペンと合併した。(市域は+46,29 km2、住民は+5.543人)

1958年:ベーレンドレヒト、ザントフリート、リロ(あわせて現在のベーレンドレヒト=ザントフリート=リロ)がアントウェルペンと合併した。(市域は+52,93 km2、住民は+7.249 人)

1983年:ベルヘム、ボルケルハウト、デウネ、ホーボーケン、メルクセム、ウィルレイクと大部分のエーケレムがアントウェルペンと合併した。これにより大幅に市民数が増加した。(市域は+64,68 km2、住民は+305.503人)

言語

オランダ語がアントウェルペンの公用語である。地元の人々はそのアントウェルペン方言を用いている。いくらかの人々の間ではフランス語も話される。大多数の住民、特に若い世代の多くはかなり流暢な英語を話す。モロッコやトルコなどからの移民はアラビア語ベルベル語トルコ語などを用いている。若干の正統派ユダヤ教の人々はイディッシュ語を話す。
歴史
古代から中世

歴史上、アントウェルペンはガロ・ローマ文明の集落にその起源があると考えられる。スヘルデ川付近における最古の集落がある地域で1952年から1961年にかけて発掘が行われ、2世紀半ばから3世紀末の陶器や杯の破片が出土している。その後、ゲルマン人フランク族が進出した。メロヴィング朝期においてアントウェルペンに砦が築かれ、7世紀頃に聖アマンドゥスによってキリスト教化された。10世紀末、スヘルデ川は神聖ローマ帝国における境界となった。アントウェルペンには辺境伯が置かれ、フランドル伯と対峙した。11世紀、ゴドフロワ・ド・ブイヨンが、数年間アントウェルペンを治めた。12世紀、聖ノルベルト(ノルベルト・フォン・クサンテン)が、プレモントレ会則に基づくサン・ミシェル修道院を建てた。14世紀前半に英仏百年戦争が勃発するが、フランドル地方の毛織物産業はイングランドの羊毛産業と密接なつながりがあったため、親イングランドの立場をとろうとした。そのため、フランス王と結んでいるフランドル伯に対抗して、ヤコブ・ヴァン・アルテベルデがフランドル都市連合指導者となり、イングランド側を支持する姿勢をとった。アントウェルペンは、この百年戦争初期にイングランド王エドワード3世とヤコブ・ヴァン・アルテベルデが交渉にとりかかった際の拠点でもあった。エドワードの息子ライオネル・オブ・アントワープは、アントウェルペンで生まれている。

15世紀前半、フランドル諸都市は、イングランド産毛織物の流入によって市場を奪われることを望まず、ブルゴーニュ公に働きかけて輸入禁止の措置をとらせた。こうしたなか、アントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾームはイングランドの毛織物商人を受け入れたため、イングランド産毛織物がアントウェルペンに流入した。この毛織物をライン川沿いのケルン商人が購入し、南ドイツなどへ供給するようになった。[5]15世紀半ばには、ニュルンベルクアウクスブルクなどの南ドイツ商人が、直接にアントウェルペンまで取引に訪れるようになった。これにより、香料をブルッヘ経由でなくイタリアから南ドイツ経由で入手できるようになった。こうした状況が近世アントウェルペン繁栄の前提となった。[6]
近世アントウェルペンの地図 1624年

このような商業網の変化に加え、ズウィンが土砂の堆積によって航行困難となったこともあり、中世後期におけるネーデルラント経済の中心ブルッヘが衰退していき、それに代わってスヘルデ河畔のアントウェルペン(当時はブラバント公国の支配下)が重要性を増すことになった。ライン川沿いのケルン商人との結びつきを強めたことでヨーロッパ商業網における地位は一層強化され、15世紀末には外国商館がブルッヘからアントウェルペンへと移転し始めた。1501年にはスヘルデ河岸にポルトガル船が香辛料などを積んで到来し[7]、1508年にはポルトガル王のもとで商館が設立され[8]、1510年におけるイングランド商館についての記載も史料に残されている。

歴史家フェルナン・ブローデルは、「このスヘルデ川に臨む都市はじつに国際経済全体の中心にあった。ブリュージュはというと、その最盛期にあっても、その地位まで到達したことがなかったのである」[9] と評している。そのアントウェルペンの黄金時代は、強く「大交易時代」と関連して海運業の隆盛を極め、16世紀前半より成長を遂げて1560年までにはアルプス以北における最大規模の都市となった。多くの外国商人が街に居住し、ポルトガル船からは胡椒やシナモンなどの積荷が日々下ろされていた。ヴェネツィアの大使だったフランチェスコ・グイチャルディーニは、何百の船舶が一日に往来し、2千もの荷馬車が毎週やってくることを記している。また、ポーランド産穀物を積んだ船の寄港地として、いくつもの倉庫を抱えていた。

ヴェネツィアやジェノヴァの繁栄は各地へと赴いた地元出身の商人によって支えられていたが、アントウェルペンの場合は同市出身の商人が世界各地に勇躍していったわけではない。アントウェルペン経済は、ヴェネツィアやラグーザ(ドゥブロヴニク)、スペイン、ポルトガルなど各地からやって来た商人たちの手で支えられており、このことが都市内の多様性・コスモポリタン的性格を形成していった[10]。宗教的にも寛容で、ユダヤ教正統派の大規模なコミュニティも形成されたほか、イベリア半島を追われた「マラーノ(マラノス)」の亡命先や、プロテスタントの拠点ともなり得たのである。

しかし、アントウェルペンは(ヴェネツィアやジェノヴァのような)「自由都市自治共和国」というわけではない。一時はブリュッセルのブラバント公による支配から離れたものの、1406年より再びブリュッセルの統制下に置かれていた。

アントウェルペンはこの黄金時代に1501年から1521年、1535年から1557年、1559年から1568年と3回の好況を迎えた。[11]最初の繁栄は、ポルトガルからもたらされた胡椒であった。この好況は1521年よりイタリア戦争が深刻化し、ヴァロワ家ハプスブルク家の間の戦乱によって国際商業が麻痺したことで収束していった。


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