アンディ・ギブ
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アンディ・ギブ
Andy Gibb
USAワシントンD.C.公演(1981年)
基本情報
出生名Andrew Roy Gibb
生誕 (1958-03-05) 1958年3月5日
イングランドマンチェスター
出身地 オーストラリアブリスベン
死没 (1988-03-10) 1988年3月10日(30歳没)
イングランドオックスフォード
ジャンルポップディスコ
職業シンガー
担当楽器ボーカル
活動期間1975年 - 1988年
レーベルRSO Records
共同作業者ビージーズ

アンディ・ギブ(: Andy Gibb、1958年3月5日 - 1988年3月10日)は、イギリス歌手1970年代後半から1980年代初めにかけて世界的にアイドル的な人気を博した。ビージーズの3人(バリー・ギブロビン・ギブモーリス・ギブ)の弟。
アメリカ・デビュー以前

本名アンドリュー・ロイ・ギブ(: Andrew Roy Gibb)は、父ヒュー・ギブ(1916?92)と母バーブラ(1920?2016)の下で生まれ、その6ヶ月後に家族とともにオーストラリアブリスベン北にあるクリブ島に引っ越した。彼は末っ子で、1人の姉(レズリー 1945年生)と3人の兄(バリー 1946年生、ロビン 1949年生、モーリス 1949年生)がいた。上のきょうだい達とは歳が離れているため家族達から溺愛されて育った。、アンディが8歳の時である1967年1月、家族とともにイングランドへ帰国した頃、ビージーズは世界的な名声を得た。兄達の成功は少年期のアンディの生活をも変え、学校へロールスロイスで学校に送迎されるような生活に変わった。そのことが他の生徒の妬みを買い、学校でのアンディの生活を困難にし、13歳で学校に行くのを止めることとなった。アンディは10代の頃、最初はスペインイビサ島で、その後マン島(マン島は彼の兄の出身地で、両親が住んでいた場所)で、旅行者が集まるクラブで音楽活動を始めた。地元のミュージシャンのジョン・オルダーソン(ギター)とジョン・ストリンガー(ドラム)とメロディ・フェア(Melody Fayre)(ビージーズの曲名を元に名づけられた)というバンドを結成した。このグループのマネジメントは彼の母・バーブラが行い、マン島のホテル内で定期的にライヴをしていた。彼の最初のレコーディングは、兄モーリスが作曲・演奏・プロデュースした「My Father Was A Reb」という曲だったが、発売されなかった。

ビージーズの成功の要因の1つはオーストラリア時代のトレーニングだったと考えていた兄バリーに強く勧められたため、アンディは1974年オーストラリアへ帰国した。オーストラリアでは彼は一人ではなく、姉レスリーが残って夫と住んでいた。オルダーソンとストリンガーも、アンディを追ってオーストラリアへ向かった。コル・ジョーイ(英語版)がプロデュースの元、アンディとオルダーソン、ストリンガーは何曲かレコーディングをした。グループ活動は散発的だったが、アンディはトレーニング目的だったこともあって兄たちの経済的な援助を受けていた。しかし、オルダーソンとストリンガーはそうもいかないため、イギリスへ帰国した。アンディのデビュー・シングルは「ワーズ・アンド・ミュージック」(Words and Music)というバラードで、コル・ジョーイのプロデュースだった。このシングル(カップリングは「Westfield Mansions」)は、1976年シドニー・ミュージック・チャートにてトップ20にランクインした。その後、トレバー・ノートン(ドラム)らのバンド・ゼンタ(Zenta)にアンディは加入し、スウィートベイ・シティ・ローラーズのオーストラリア・ツアーにおけるサポート・アクトをつとめた。ダリル・サマーズ(英語版)がホストをつとめるテレビ番組で演奏した「Can't Stop Dancing」(レイ・スティーブンス(英語版)のカバー。キャプテン&テニールの1977年のカバーがアメリカでヒット)をシングルでリリースする予定があったが、リリースされなかった。1976年初め、ビージーズのマネージャーであるロバート・スティグウッド(英語版)が、アンディを自分のレーベル(RSOレコード(英語版))と契約した。アンディはマイアミビーチへ移り、兄バリーや共同プロデューサーのアルビー・ガルテン(英語版)、カール・リチャードソン(英語版)と音楽活動を開始した。

オーストラリアを発つ前に、アンディはガールフレンドと結婚した。夫婦の間には1978年に1人の娘が誕生したが、娘が誕生前に夫婦はすでにアンディのコカイン中毒が原因で別居していて、その後離婚した。
絶頂期

1976年後半、アンディはマイアミにある有名なクライテリア・スタジオで、兄バリーとともにデビュー・アルバムの制作にとりかかった。オーストラリアを出国してからの最初のリリースは、シングル「恋のときめき(英語版)」(I Just Want to Be Your Everything)で、この曲はバリーによって書かれた。バリーはバック・ボーカルとしても参加している。このシングルはアメリカとオーストラリアでナンバー1ヒットとなり、結局この曲はその年で最も演奏された曲となった。イギリスではトップ40にランクインした程度の小ヒットとなった。アルバムに収録された10曲のうち、8曲はアンディによって書かれた曲だった。そのほとんどは、彼がオーストラリアにいる間に書いた曲で、その8曲の中に「ワーズ・アンド・ミュージック」の再録音が含まれていた。

1977年9月にデビュー・アルバム『Flowing Rivers』は、もう1つのナンバー1ヒット「愛の面影」(Love Is Thicker Than Water)(アンディとバリーの共同制作)が収録され、ミリオン・セラーとなった。ビージーズが制作したサウンドトラック『サタデー・ナイト・フィーバー』からの曲が次々と連続でナンバー1ヒットとなる中、その間に割り込んだ形で「愛の面影」がナンバー1ヒットとなった(この曲の前のナンバー1ヒットが「ステイン・アライヴ」で、後が「恋のナイト・フィーバー」)[1]

1978年4月に、バリー・ギブ、アルビー・ガルテン、カール・リチャードソンと制作をした2ndアルバム『Shadow Dancing』を発表した。このアルバムのタイトルトラック(ギブ4兄弟によって書かれた曲)はシングルとして発売されると、アメリカで7週連続1位となり、プラチナレコードを記録、「恋のナイト・フィーバー」を抑え、この年のビルボード年間ランキング1位を獲得した。ビルボード・ホット100で3曲連続でナンバー1ヒットを記録したアンディは初めてのソロ・シンガーである。


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