アンテミウス
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アンテミウス
Anthemius
西ローマ皇帝
アンテミウス帝の金貨。彼の称号は『我らが君主アンテミウス、敬虔で幸運なアウグストゥス』
在位467年4月12日 ? 472年7月11日

全名Procopius Anthemius
出生420年頃
コンスタンティノープル
死去

472年7月11日(472-07-11)(52歳没)
ローマ
配偶者アエリア・マルキア・エウフェミア(英語版)
子女アリピア(英語版)
アンテミオルゥス(英語版)
マルキアヌス(英語版)
プロコピオス・アンテミウス(英語版)
ロムルス(英語版)
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プロコピオス・アンテミウス(Procopius Anthemius[1]420年頃 ? 472年7月11日)は西ローマ皇帝(在位:467年 - 472年)。東ローマ皇帝レオ1世の指名によって西ローマ皇帝に即位したアンテミウス帝は帝国が直面していた二つの軍事的脅威に対処しようと試みた。東西両帝国共同で北アフリカを支配する強大なガイセリック王のヴァンダル族を攻撃するが惨敗に終わり、次いでピレネー山脈にまたがる領域を占拠するエウリック王の西ゴート族を攻撃するもこれも失敗した。アンテミウス帝は西ローマ帝国の実力者であるリキメル将軍と権力争いを起こし、敗れて処刑された。
生涯
出自と官歴

アンテミウスは東ローマ帝国において文武両官の高位を与えられてきた著名な家門プロコピア家(英語版)に属していた。母は346年に東方民政総督(英語版)を務めたフラウィウス・ピリップス(英語版)の曾孫にあたり、母方の祖父は404年から415年に東方民政総督を務め、405年には執政官に選ばれたフラウィウス・アンテミウスである[2][3]。彼の父は422年から424年に東方軍区長官(magister militum per Orientem)を務めたプロコピウス(英語版)であり、ウァレンス帝に対する僭称皇帝プロコピウスユリアヌス帝の母方の従兄で母がユリアヌス帝の母バシリナの姉妹)の後裔にあたる人物であった(僭称皇帝プロコピウスの子に同名のプロコピウス(365年 - 没年不明)がおり、このプロコピウスが東方軍区長官を務めたプロコピウスの父である。故にアンテミウスはプロコピウス直系の曾孫となる)。

450年頃のヨーロッパ

2世紀に始まった民族大移動により、ガリア西部に西ゴート族、ヒスパニアにスエビ族が割拠し、そして北アフリカに侵入したヴァンダル族は海軍をつくり地中海沿岸部を襲撃していた。
5世紀前半にはアッティラフン族が東欧と中欧の諸族を従えて台頭していたが、453年にアッティラが急死するとフン帝国は急速に瓦解し、フランク族ブルグント族ゲピード族、ルギイ族(英語版)、東ゴート族などが自立している。 西ローマ帝国a 東ローマ帝国a フ ン 族a ブルグント族a フランク族a 西ゴート族a スエビ族a ヴァンダル族a

アンテミウスは420年頃にコンスタンティノープルに生まれ、長じてアレクサンドリアに渡り、新プラトン主義の哲学者プロクロスの元で学び、同門にはマルケリヌス(英語版)(イリュリクム軍区長官兼民政総督)、プゥサィルゥス(英語版)(東方民政総督および467年の執政官)、セウェルス(英語版)(470年の執政官および首都長官(英語版))そしてパンプレピゥス(英語版)(異教徒の詩人)がいた[4]

453年に彼は東ローマ皇帝マルキアヌス(在位:450年 - 457年)の皇女マルキア・エウフェミア(英語版)と結婚した。この結婚の後に彼は督軍(英語版)に昇格し、453年のフン王アッティラの死後、荒廃するに任されていたダーヌビアン辺境地域の防衛線再建に派遣された。454年に彼はコンスタンティノープルに召喚され、454年か455年にパトリキウス(貴族、名誉顕官)の称号が与えられ、定員2名の東方軍区長官職の一人に任命された。455年に彼は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の同僚執政官たる名誉に浴した。

マルキアヌス帝の皇女との結婚、軍の要職への昇進(軍事行動よりも管理業務が主であったが)、パトリキウスの称号そして軍職の最高位、西ローマ皇帝の同僚たる執政官職といった一連の名誉ある出来事はマルキアヌス帝がアンテミウスを東西いずれかの次期ローマ皇帝候補としていたことを示唆する。この仮定は6世紀の歴史家ヨハンネス・マララス(英語版)がマルキアヌス帝がアウィトゥス帝の次の西ローマ皇帝として彼を指名したと誤って記述していることによっても補強される[5]

456年10月に西ローマ皇帝アウィトゥスは廃位され、マルキアヌス帝はおそらくはアンテミウスをその後継者にしようと考えたが、457年1月に彼を同僚皇帝に指名する前に死去してしまった。この結果、両帝国の皇帝が空位となり、西帝国では二人の将軍、リキメルマヨリアヌス、東帝国ではアラン人マギステル・ミリトゥム(軍務長官)アスパルがおのおの実権を握った。蛮族出身で皇帝に即位することはできないアスパルは高い権威を持ち自立して行動しそうなアンテミウスの即位に反対し、より低い階級の軍人レオを皇帝に選出させた。西帝国でも蛮族出身のリキメルは即位できず、紫衣を受けたのはマヨリアヌスであった[6]

アンテミウスは軍務長官となり新帝レオ1世に仕え、国境を脅かす蛮族から帝国を守る任務に就いた。460年頃に彼はヴァラミール(英語版)率いる東ゴート族イリュリクムで戦い勝利した。466年から467年の冬にはドナウ川を渡りダキアを荒らしたオルミダク(フランス語版)率いるフン族を撃破している。セルディカ(ソフィア)を占領した襲撃者たちはアンテミウスに包囲され、飢えに苦しんだフン族が町を出て野戦をしかけた。フン族出身の騎兵指揮官の裏切りにもかかわらず、アンテミウスの歩兵部隊がこれに打ち勝った。オルミダクが降伏を申し出ると、アンテミウスは逃亡兵を引き渡すよう要求した[7]
即位

新たに選ばれた東ローマ皇帝レオ1世にとっての最大の対外問題がヴァンダル王ガイセリックの存在とイタリア沿岸部への彼らの襲撃であった。465年にリウィウス・セウェルス帝が死去すると西ローマ皇帝は空位となった。ガイセリックはオリブリオスを皇帝候補に推しており、オリブリオスとガイセリックの王子フネリックはともにウァレンティニアヌス3世の皇女を妻としていた。

オリブリオスが西ローマ皇帝になればガイセリックが西帝国の実権を握ることになりかねなかった。レオ1世はガイセリックをラヴェンナの西宮廷からできる限り引き離すことを望んでおり、リウィウス・セウェルス帝の後継者選定を引き延ばした。レオ1世に圧力をかけるべく、ガイセリックはシチリアやイタリアだけでなく東帝国の領域にまで襲撃を広げ、イリュリクムやペロポネソス半島、ギリシャの一部の住民を略奪して奴隷に売っており、レオ1世は行動を起こさざるをえなくなった。

レオ1世はアンテミウスにイリュリクム軍区長官(Magister militum per Illyricum)のマルケリヌスと彼の軍隊を付けてイタリアへと送り込んだ[6]。467年4月12日にアンテミウスはローマから20 - 30マイル離れた場所で皇帝たるを宣言した[8]。アンテミウス帝の選出はコンスタンティノープルでも祝われディオスコルス(英語版)が賛辞を贈った[9]
治世
東ローマ帝国との関係東ローマ皇帝レオ1世。

アンテミウス帝の治世は東ローマ宮廷との良好な関係に特徴づけられ、例えば東ローマの法令はアンテミウス帝を最後の西ローマ皇帝であると記録している[10]

東西両宮廷は毎年の執政官選出で共調を行い、2名の執政官のうち1名は相手方宮廷の指名した者を受け入れた。468年の即位初年は皇帝が執政官になる慣例に従い、アンテミウス帝が栄誉ある単独執政官(sine collega )を務め(東ローマ皇帝レオ1世も466年に同様の単独執政官に就任している)。翌469年の執政官は1名がアンテミウス帝の皇子フラウィウス・マルキアヌス(英語版)が務め、もう1名にはレオ1世の義理の息子のフラウィウス・ゼノンが就任した。

470年はアンテミウス帝と同門で旧友のセウェルスと東方軍区長官(Magister militum per Orientem)のヨルダネスが執政官となった。471年はレオ1世がイタリア民政総督(英語版)のプロビアヌゥス(英語版)を同僚とする四度目の執政官に就任している。この年に両皇帝は婚姻でも紐帯を強め、アンテミウス帝の皇子マルキアヌスとレオ1世の皇女レオンティア(英語版)が結婚した。翌472年に皇子マルキアヌスは二度目の執政官に選ばれ、この時は東宮廷の指名によるものであった。

アンテミウス帝の婚姻政策には唯一の娘アリピア(英語版)と西帝国における有力者である軍務長官リキメルとの結婚も含まれていた。


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