この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 公用語ラテン語、古フランス語、アルメニア語、ギリシャ語、アラビア語
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月)
アンティオキア公国
Principatus Antiochenus
首都アンティオキア
公
1098年 - 1111年ボエモン1世
1252年 - 1268年ボエモン6世
アンティオキア公国(アンティオキアこうこく、英: Principality of Antioch)は、第1回十字軍が聖地に建設した、十字軍国家のひとつ。シリア北部の重要都市アンティオキア(アンティオケイア)を首都とした。 第1回十字軍以前は、アンティオキアはセルジューク朝の総督ヤギ・シヤーンが治める難攻不落の城塞都市だったが、セルジューク朝征服以前からのギリシア人住民も多く、東ローマ帝国はここを帝国固有の領土と考え[1]、セルジューク朝から回復しようと考えていた。第1回十字軍遠征の際、アンティオキア攻囲戦において活躍した南イタリアのノルマン人封建君主であるターラント公ボエモンは攻略中からこの都市の領有の希望を公言するようになり、1098年、半年に渡る包囲の末にアンティオキアが陥落し市民の虐殺と略奪が終わると、この地の君主(公)に就任し、アンティキアを首都とするアンティオキア公国が建設された。ボエモンは十字軍の本来の目的であったエルサレム攻略への参加を止め、アンティオキア公国の確立に専念することになる。
目次
1 アンティオキア公国の建設と拡大
2 アンティオキア公国の縮小
3 強盗騎士ルノー・ド・シャティヨン
4 高まるムスリムの圧力
5 アルメニア人の支配
6 モンゴル軍への加勢、そして滅亡
7 歴代君主
7.1 系図
8 関連項目
9 脚注
10 参考文献
アンティオキア公国の建設と拡大