アンティオキア公国
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アンティオキア公国
Principatus Antiochenus


1098年 - 1268年


(国章)

1135年の中東。アンティオキア公国は青色。

公用語ラテン語古フランス語アルメニア語ギリシャ語アラビア語
首都アンティオキア

1098年 - 1111年ボエモン1世
1252年 - 1268年ボエモン6世(英語版)

変遷
建国1098年
バイバルスによって征服1268年

アンティオキア公国(アンティオキアこうこく、: Principality of Antioch)は、第1回十字軍が聖地に建設した、十字軍国家のひとつ。シリア北部の重要都市アンティオキア(アンティオケイア)を首都とした。
目次

1 アンティオキア公国の建設と拡大

2 アンティオキア公国の縮小

3 強盗騎士ルノー・ド・シャティヨン

4 高まるムスリムの圧力

5 アルメニア人の支配

6 モンゴル軍への加勢、そして滅亡

7 歴代君主

7.1 系図


8 関連項目

9 脚注

10 参考文献

アンティオキア公国の建設と拡大

第1回十字軍以前は、アンティオキアセルジューク朝の総督ヤギ・シヤーンが治める難攻不落の城塞都市だったが、セルジューク朝征服以前からのギリシア人住民も多く、東ローマ帝国はここを帝国固有の領土と考え[1]、セルジューク朝から回復しようと考えていた。第1回十字軍遠征の際、アンティオキア攻囲戦において活躍した南イタリアノルマン人封建君主であるターラント公ボエモンは攻略中からこの都市の領有の希望を公言するようになり、1098年、半年に渡る包囲の末にアンティオキアが陥落し市民の虐殺と略奪が終わると、この地の君主)に就任し、アンティキアを首都とするアンティオキア公国が建設された。ボエモンは十字軍の本来の目的であったエルサレム攻略への参加を止め、アンティオキア公国の確立に専念することになる。

ボエモンは1100年に小アジア内陸のセルジューク朝系ムスリム政権ダニシュメンド朝の王ダニシュメンド・ガーズィーを討とうとして、逆にダニシュメンドの捕虜となってしまう(メリテネの戦い)と、甥のタンクレード摂政に就任した。


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