アンダマン諸島の戦い
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}第二次世界大戦 > インド洋の戦い (第二次世界大戦) > 日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領アンダマン・ニコバル諸島の位置上部がアンダマン諸島、下部がニコバル諸島。中央の拡大図はポートブレア周辺

日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領(にほんぐんによるアンダマン・ニコバルしょとうのせんりょう)は、1942年昭和17年)3月下旬の日本軍によるアンダマン諸島の占領に始まり[1]1945年8月に大日本帝国連合軍に降伏し、同年9月にイギリスが両諸島を再占領するまで続いた[2]
日本軍の諸島占領
背景

1942年(昭和17年)1月中旬、日本軍はビルマ攻略作戦を実施しようとしていた[3]1月22日、大陸命第590号)[4][5]。ビルマに投入予定の日本陸軍のうち一部は輸送船で移動することに決定し(あるいは予定変更され)[6]、陸軍・海軍中央協定により連合艦隊(司令長官山本五十六大将)と第一南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将、馬来部隊指揮官)が輸送に協力することになった[5][7]。日本海軍もビルマ作戦支援の観点から、南雲機動部隊(司令長官南雲忠一第一航空艦隊司令長官)をインド洋に投入することを検討した[7][8]

アンダマン諸島の占領は開戦前の計画には正式にとりあげられておらず、日本陸軍の一部に「マレー作戦の側面掩護という意味合いで、アンダマン諸島を攻略すべき」との意見があった[9][10]。また連合艦隊の第二段作戦計画[注釈 1]においてインド洋通商破壊作戦実施の関係上「作戦状況許す限り速かに占領または破壊せんとする地域の一つ」にあげられている程度だった[9][10]。だがビルマ海上輸送を行うにあたり、海上交通保護・護衛の観点から、マラッカ海峡の啓開・北部スマトラ島の攻略・ビルマとスマトラを結ぶ南北の線上にあった英領インド帝国アンダマン・ニコバル諸島の占領が重要視されるに至った[10][8]南アンダマン島南東部のポートブレアには、飛行場港湾施設があった[11]イギリス軍の守備隊は一個中隊ほどで、1942年1月にグルカ大隊と交代していた[11]。なおラングーン陥落後の3月12日、イギリス軍はアンダマン島守備隊の撤退を決定した[11]

2月4日、軍令部は連合艦隊にアンダマン諸島の攻略を内報した[10]2月7日、大本営陸軍部は大陸命第598号[注釈 2]と大陸指第1102号[注釈 3]によりアンダマン諸島方面要域の攻略を命じた[10][12]。同日、大本営海軍部は大海令第15号[注釈 4]と大海指第52号[注釈 5]により、連合艦隊にアンダマン諸島の攻略を命じた[10][8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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