アンタルヤ
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アンタルヤ
Antalya


位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度54分 東経30度41分 / 北緯36.900度 東経30.683度 / 36.900; 30.683
行政
トルコ
 地方地中海地方
 アンタルヤ県
 市アンタルヤ
市長Mustafa Akayd?n
(共和人民党)
地理
面積 
  市域1,417 km2
標高30 m
人口
人口(2007年現在)
  市域775,157人
    人口密度  478人/km2
その他
等時帯極東ヨーロッパ時間 (UTC+3)
郵便番号07x xx
市外局番0242
ナンバープレート07
公式ウェブサイト : ⇒http://www.antalya.bel.tr/
アンタルヤの町並み.

アンタルヤ、アンタリヤ(トルコ語: Antalya [an?talja])はトルコ南西部アンタルヤ県の県都と大都市自治体。かつてはアッタリア(Attalia)、アダリア(Adalia)などと呼ばれた。1970年代以降は観光都市としての投資が盛んである。トルコの「観光の首都」、世界の「野外博物館」と呼ばれる。[1]アンタルヤはトルコのRivieraに位置するトルコ最大の国際的海浜保養地である。大規模な開発と政府の資金援助が観光を促進してきた。2019年には過去最高の1360万人の観光客がこの町を訪れた。[2]
歴史市内にあるアッタロス2世像アンタルヤの歴史的中心地、カレイチからの眺め。

この地にいつから人々が定住したのかは定かではないが、ペルガモン王国アッタロス2世がその強大な海軍の基地として紀元前150年にこの地を選びアッタリアと名づけた、と信じられている。一方で、2008年に行われた発掘の結果、紀元前3世紀の遺跡が発見された。アッタロス3世が死ぬと紀元前133年、この地は共和政ローマの版図に入った。この時期にアッタリアは繁栄を迎える。

2世紀キリスト教がこの地に及び、使徒行伝に記されているようにパウロがアッタリアを訪れた。ビザンティン帝国の時代にテマが始まると、帝国の主要な都市の1つとなり、テマ・キビュライオタイ(ギリシア語版、英語版)のen:Karabisianoi(: Καραβισι?νοι)に海軍の本部が置かれ小アジアエーゲ海を管轄した。ヨハネス2世コムネノスの時代には海からでしか連絡できない孤立した前哨基地としてトルコ人に対峙せざるを得ない事態に陥ったが、その後、トルコ人を駆逐、陸路を回復した。

13世紀セルジューク朝に征服され、その後、オスマン帝国の支配を受けるまで、アッタリアはテケ侯国の都となる。1335年からの5年間、イブン=バットゥータはアッタリアを訪れている。またオスマン帝国の旅行家・エヴリヤ・チェレビ(Evliya Celebi)も17世紀後半にアッタリアを旅し、狭い通りに家が隙間無く建て込んでいる様を記している。この頃、町は城壁を越えて広がり、港には200艘を越える船が係留されていた。

19世紀に入るとオスマン帝国の知事よりも地主が力を蓄えるようになり、それは近年まで続いた。20世紀になるとバルカン半島カフカースからトルコ人が続々とアンタルヤに移り住み人口が急増した。1911年までに市の人口は25,000人を数えた。キリスト教徒ユダヤ人も移り住んできたが、彼らの住居は区切られた居住区に設けられた。アダリアと呼ばれたその時代は、町が乱雑に開発され、後退を示した時であった。アダリアを訪れる人々は城壁とその外の遊歩道を楽しみ、上流階級もまた城壁の外に居を構えた。

第一次世界大戦末期からアンタルヤはイタリア軍の占領を受けるが、1923年トルコ共和国が発足し、駆逐した。

1993年にアンタルヤ市は大都市自治体に指定された[3]2004年に指定範囲が知事室の周囲半径30kmまでに拡大した[4]2012年の大都市自治体の指定範囲の拡大により、アンタルヤ県の全域とは同一の範囲となっている[5]

2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻ではトルコが仲介役となり、同年3月10日、アンタルヤでロシアのラブロフ外相とウクライナのクレバ外相による、侵攻後初の閣僚級会談が行われた[6]
地理

地中海(アンタルヤ湾)に面し、山に囲まれて切り立った海岸線を持つ。
気候

トロス山脈が北からの風を遮り冬でも暖かい地中海性気候である。夏は海陸風で極めて高温になることがある。

アンタルヤの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)14.9
(58.8)15.4
(59.7)17.7
(63.9)21.2
(70.2)25.4
(77.7)30.5
(86.9)33.8
(92.8)33.7
(92.7)30.9
(87.6)26.4
(79.5)21.2
(70.2)16.7
(62.1)21.9
(71.4)
平均最低気温 °C (°F)5.9
(42.6)6.2
(43.2)7.8
(46)11.1
(52)15.0
(59)19.4
(66.9)22.4
(72.3)22.3
(72.1)19.1
(66.4)15.0
(59)10.7
(51.3)7.6
(45.7)13.5
(56.3)
降水量 mm (inch)232.4
(9.15)160.7
(6.327)96.8
(3.811)46.2
(1.819)30.0
(1.181)9.6
(0.378)2.2
(0.087)2.5
(0.098)12.3
(0.484)67.7
(2.665)131.9
(5.193)263.3
(10.366)1,055.6
(41.559)
平均降水日数13119653112681277
出典:World Weather Information Service[7] 2009-01-01

経済

農産品として柑橘類、綿花、切り花、オリーブ、オリーブ・オイル、バナナが生産されている。アンタルヤ都市圏自治体の屋根付き食品卸売市場団地は、県内の生鮮果物と野菜の需要の65%を満たしている。[8]

アンタルヤ・フリーゾーンは、トルコの近代ヨット建造の中心地とみなされている。[9]
観光

アンタルヤ県ムーラ県は「トルコリヴィエラ」と呼ばれ、世界的なリゾート地になっている。

パンフィリアキリキア観光の玄関口でもある。

交通


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