アンソニー・ルドヴィチ
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Anthony LudoviciLudovici in 1927
生誕 (1882-01-08) 1882年1月8日
イングランドロンドン
死没1971年5月3日(1971-05-03)(89歳)
イングランドロンドン
時代20世紀の哲学
地域

西洋哲学

イギリス哲学

学派大陸哲学
反啓蒙主義
ニーチェ主義
研究機関English Mistery
研究分野美学優生学形而上学政治哲学経済哲学社会哲学宗教哲学
影響を受けた人物

アリストテレスフロイトニーチェショーペンハウアーハーバート・スペンサー

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アンソニー・マリオ・ルドヴィチ(Anthony Mario Ludovici、1882年1月8日 - 1971年4月3日)は、イギリス哲学者社会学者評論家多言語話者貴族主義アリストクラシー)、反平等主義の支持者として知られる、20世紀初頭のイギリスを代表する保守派の作家。美術、形而上学、政治、経済、宗教、男女や人種の差異、衛生、優生学などを主題として著作活動を行った[1]

画家として、絵や本の挿絵を描くことからキャリアを開始した。1906年に数ヶ月間、彫刻家オーギュスト・ロダンの私設秘書を務めた[2]。その後、30冊以上の本を執筆し、多くの本を翻訳した。
早年期

ルドヴィチは、1882年1月8日、イギリスのロンドンで、アルバート・ルドヴィチ(Albert Ludovici)とマリー・カルス(Marie Cals)との間に生まれた。父と祖父(Albert Ludovici, Sr.)はともに美術家であり、バスク人、フランス人、ドイツ人、イタリア人の血を引く[3]。イギリスや海外で私立教育を受けたが、主に母親によって教育された[4]。若い頃、1900年のパリ万国博覧会で出会ったハリー・ガイ・ラドクリフ・ドリューと友人となる[5]。その後、ドリューの娘ドロシー(後にF・M・アレクサンダーに師事)とジョイス(建築家ジェーン・ドリューとして知られる)と親交を深める。1920年3月20日、エルシー・フィニモア・バックリー(Elsie Finnimore Buckley)と結婚し、最初は南ロンドンのアッパー・ノーウッドにあるセントラル・ヒル35番地で暮らした。数年間をドイツで過ごし、ニーチェの著作をドイツ語原文で研究した。彼は数ヶ国語に堪能であった。

1906年、彫刻家オーギュスト・ロダンの私設秘書を務め、ロダンと親交を深めた。その後、1923年から『Cornhill Magazine』に掲載された記事で、ロダンの性格や芸術に関する個人的な経験や自身の意見を書き、1926年には『Personal Reminiscences of Auguste Rodin』の題で出版された。1908年夏には、ニーチェの初英訳『The Complete Works of Friedrich Nietzsche』の編集者オスカー・レヴィ博士(Oscar Levy)に出会い、親交を深める。ルドヴィチは数巻を分担した[6]。レヴィの紹介で、後に妻となるエルシー・F・バックレーと知り合う[7]。芸術、政治、宗教、そしてフリードリヒ・ニーチェの哲学について講演を始め、ニーチェについては『Who is to be Master of the World?: An Introduction to the Philosophy of Friedrich』(1909年)、『Nietzsche: His Life and Works 』(1910年)を出版した。ニーチェ研究者のウィリアム・マッキンタイア・ソルターは、ルドヴィチの『Nietzsche: His Life and Works』をニーチェに関する「the well-nigh perfect short manual」と評した[8]。ニーチェの美学に関する先駆的な著作『Nietzsche and Art』(1911年)は、ヨーロッパで最初の試みの一つであった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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