Anthony Perkins
アンソニー・パーキンス
1960年宣伝写真
生年月日 (1932-04-04) 1932年4月4日
没年月日 (1992-09-12) 1992年9月12日(60歳没)
出生地ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国
職業俳優
配偶者Berry Berenson (1973年-1992年)
主な作品
『友情ある説得』(1956年)
『渚にて』(1959年)
『サイコ』(1960年)
『さよならをもう一度』(1961年)
受賞
カンヌ国際映画祭
男優賞
1961年『さよならをもう一度』
その他の賞
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アンソニー・パーキンス(Anthony Perkins、1932年4月4日 - 1992年9月12日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク出身の俳優。 父親が舞台俳優だったが、アンソニーが5歳の時に亡くなっている[注釈 1][1]。若いころから俳優を志し、舞台に出演。映画デビューは1953年の『女優』。しばらく芽が出なかったが、コロンビア大学卒業後の1956年、ウィリアム・ワイラー監督のカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品『友情ある説得』でアカデミー助演男優賞にノミネートされた。その後、1957年の『ロンリー・マン』、続く1958年の『胸に輝く星』、『海の壁』、1959年『渚にて』などに出演、1960年代を代表する青春スターとして人気を博した。1959年の『緑の館』ではオードリー・ヘプバーンと共演、自ら歌う場面もあり美声を披露、1960年の『のっぽ物語』ではジェーン・フォンダと共演している。歌手としては「月影のなぎさ (Moon-Light Swim)」というシングルを発表しており[2]、トニー・パーキンス (Tony Perkins)の名義でアルバムも残している。 1960年にアルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』に主演のノーマン・ベイツ役で出演し強烈な印象を残した。翌1961年のイングリッド・バーグマン、イヴ・モンタン共演の映画『さよならをもう一度』で第14回カンヌ国際映画祭 男優賞を受賞した。その後1960年代後半から1970年代にかけてはハリウッドの体質を嫌い、フランス語が堪能なことからパリに在住しフランスなどのヨーロッパ映画に流れ、フイルムノワールを中心に主演。その間、日本ではフランツ・カフカ原作の1962年『審判
プロフィール
1970年代にはCM、舞台出演や脚本の執筆、1980年代は監督として新境地を開いた。だが、同性愛説や大麻不法所持などのスキャンダルでキャリアを妨げ、晩年も暗いニュースにつきまとわれる。主演作も1980年代に復活したかつての出世作『サイコ』シリーズの続編や、これをなぞるようなホラー、サスペンス映画が大半であり、個性を活かしきれなかった。それでも1987年のテレビドラマ『英雄物語/ナポレオンとジョセフィーヌ』ではタレーラン外相役で高い評価を得ていた。遺作に1992年ドイツ合作の『わが目の悪魔』、テレビ映画『殺人愛好症(マニア)の男』がある。
多くの映画監督やメディアはパーキンスの死去を悼んだ。なかでも次回作で起用を決めていた監督の一人ダリオ・アルジェントは1993年公開の『トラウマ/鮮血の叫び』におけるジャド医師役をパーキンスに想定していたといわれる。だが、実現しなかったため、フレデリック・フォレストが代わって演じた。現在でも、ユニバーサル・スタジオ・フロリダのアトラクションの中でヒッチコック映画の世界を紹介、体感するコーナーがあり、メモリアル映像もかねて生前のパーキンスのオリジナルのアトラクション紹介映像を観賞することができる。 コロンビア大学在学中はヒッチハイクを交えながら、自転車でニューヨークから西海岸まで走破することに成功したチャレンジ精神の持ち主である。 1978年に、著名なファッションデザイナーのエルザ・スキャパレッリの孫であり、ファッションモデル・女優のマリサ・ベレンソンの妹で、女優・写真家であるベリー・ベレンソン
私生活
長男のオズは俳優、次男のエルヴィス(Elvis)はシンガーソングライターとして、それぞれ活動している。 公開年邦題
主な出演作品
原題役名備考
1956友情ある説得
Friendly Persuasionジョシュ・バードウェルアカデミー助演男優賞 ノミネート
ゴールデングローブ賞 最も有望な新人男優賞 受賞
1957栄光の旅路
Fear Strikes Outジム
ロンリーマン
The Lonely Manライリー・ウェイド
胸に輝く星
The Tin Star ベン・オーウェンス
1958海の壁
This Angry Ageジョセフ
楡の木蔭の欲望
Desire Under the Elmsイーベン
花嫁売り込み作戦
The Matchmakerコーネリウス
1959緑の館
Green Mansionsアベル
渚にて