アンセルムス
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アンセルムス
Anselmus Cantuariensis
カンタベリー大司教
カンタベリーのアンセルムス
着座1093年
離任1109年4月21日
個人情報
出生1033年
神聖ローマ帝国
ブルグント王国
アオスタ
死去1109年4月21日
イングランド王国
カンタベリー
聖人
記念日4月21日
崇敬教派カトリック教会
聖公会
称号教会博士
列聖1494年
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カンタベリーのアンセルムス(: Anselmus Cantuariensis, 1033年 - 1109年4月21日)は、中世ヨーロッパ神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまでカンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会聖人日本のカトリック教会ではカンタベリーの聖アンセルモ[1]、聖アンセルモ司教教会博士[2]とも呼ばれる。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。
生涯
ル・ベックの修道士

神聖ローマ帝国治下のブルグント王国アルル王国)の都市アオスタで誕生した。アオスタは、今日のフランススイス両国の国境と接する、イタリアヴァッレ・ダオスタ州に位置する。父のガンドルフォはランゴバルドの貴族であり、また母のエルメンベルガもブルグントの貴族の出自であり、大地主であった。

父は息子に政治家の道を歩ませたかったが、アンセルムスはむしろ思慮深く高潔な母の敬虔な信仰に大いに影響された。15歳の時、修道院に入ることを希望したが、父の了承を得ることはできなかった。失望したアンセルムスは心因性の病を患い、その病から回復して一時の間、彼は神学の道をあきらめ、放埓な生活を送ったといわれる。この間に彼の真摯な気持ちを理解してくれていた母が亡くなったため、アンセルムスはこれ以上父の激しい性格に我慢ならなくなった。1056年(もしくは1057年)に家を出たアンセルムスはブルグントとフランスを歩いてまわった。その途中、ブルグントにあるベネディクト会クリュニー修道院、その系列のル・ベック修道院の副院長を当時務めていたランフランクスの高名を聞きつけ、アンセルムスは同修道院のあるノルマンディーに向かう。そして滞在していた1年間の内に、同修道院で修道士として生きることを決意する。アンセルムスが27歳の時のことである。また、幼い頃からすばらしい教育を受けてきたアンセルムスの才能が開花するのはこの時からである。

3年後の1063年、ランフランクスがカーンの修道院長に任命された時、アンセルムスはル・ベック修道院の副院長に選出された。彼はその後15年間にわたってその座にあり、1078年、ル・ベック修道院の創設者であり初代修道院長であるヘルルイヌスの死によって、アンセルムスは同修道院長に選出された。彼自身は積極的に推し進めたわけではないが、アンセルムスの下で、ベックはヨーロッパ中に知られる神学の場となった。この期間に、アンセルムスの最初の護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077-78年)が書かれた。また、問答作品『真理について』、『選択の自由について』、そして『悪魔の堕落について』が書かれたのもこの時期である。
聖職者叙任権闘争時代のカンタベリー大司教

その後アンセルムスは、師であったランフランクスを継いでカンタベリー大司教となるが、当時はオットー1世の「オットーの特権」(963年)、ハインリヒ3世の教会改革運動を巡るいざこざ(1030-40年代)を始まりとし、有名なカノッサの屈辱(1077年)で最盛期を迎える聖職者叙任権闘争の時代であった。イングランドも例外ではなく、イングランド教会の長であるカンタベリー大司教を始めとする聖職者の座を、王室と教皇、どちらの権威を持って叙任するのかという問題へ発展してゆく。これは、ただ単に名誉的な問題ではなく、高位聖職者は司教管区や修道院を元として、封土(不動産とそこに基づく財産の所有)が慣習として認められていたため、政治的、実質的問題となるのであった。このようにして、イングランドにおける教会の代表者アンセルムスはイングランド国王たちと、長きに渡る闘争に巻き込まれてゆくのである。

ノルマンディー公であったギヨーム2世は、1066年イングランド国王ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を興す。ノルマンディー公として、ウィリアム1世はル・ベック修道院の保護者であり、また同修道院がイングランドに広大な地所を所有するにいたり、アンセルムスは時折同地を訪れるようになる。彼の温厚な性格とゆるぎない信仰精神により、アンセルムスは同地の人々に慕われ、尊敬されるにいたって、当時カンタベリー大司教であったランフランクスの後継者だと、当然のように思われていた。

しかし1089年、その偉大なるランフランクスの死に際して、(教会に対する)王権の拡大を狙っていた当時のイングランド国王ウィリアム2世は、司教座の土地と財産を押さえ、新たな大司教を指名しなかった。約4年後の1092年に、チェスター卿ヒューの招きによって、アンセルムスはしぶしぶ(というのも、その様な態度を明らか様にしていた同王の下で大司教に任命されるのを恐れたから)イングランドへ渡った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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