アンジェロ・マリアーニ_(薬剤師)
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Angelo Mariani
アンジェロ・マリアーニ
ナダール撮影 (年代不明)
生誕Ange Francois Mariani
(1838-12-17) 1838年12月17日
フランス王国
ペロ=カセヴェッキ
死没 (1914-04-01) 1914年4月1日(75歳没)
フランス共和国
サン=ラファエル
市民権 フランス
国籍 フランス
研究分野薬学
主な業績マリアーニ・ワイン
マリアーニ・アルバム
署名
プロジェクト:人物伝
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アンジェロ・マリアーニ (:Angelo Mariani、1838年12月17日 - 1914年4月1日)は、フランスの薬剤師、発明家、実業家、愛書家マリアーニ・ワインの発明・製造と著名人の伝記「マリアーニ・アルバム」の発行人として知られる。
経歴タヴァーニャ (2006年撮影)

アンジェロ・マリアーニ(本名:Ange-Francois Mariani)は1838年12月17日に7月王政下のフランス王国、タヴァーニャ(コルシカ島の海賊)の旧領土であったオート=コルス県のペロ=カセヴェッキで生まれた。一家は医師のコノー家[1][2]と交流があり、アンジェロは父親のフランソワ=グザヴィエ・マリアーニ(Francois-Xavier Mariani, 1810-1875)と母親のソフィー・セバスチアニ(Sophie Sebastiani、1821-1804)[3]との間に生まれた7人の子の長男だった。1847年、父親はバスティアに薬局を開業し、息子はそこで歯の治療を受けた[2]。彼は1860年代初めにパリ[1]で薬学を学ぶためにコルシカ島を出て、クリシー通り、サン=ジェルマン大通りなどの薬局に勤めたあと、パリ医学部の向かいのグルネル通りにあるモンデ薬局に勤務した。彼はそこでキナノキ属の樹皮を原材料とする強壮剤を扱った[1][4][2]

彼はボワ=コロンブのクリシー通り近辺に引っ越し、その後、サン=ジェルマン近くのヴァノー通りにある小さなアパルトマンに移った[5]。1870年には結婚し[6]、Marie Anne Philiberte Paulmier(1847-1878)、Andre (1871-1878)、Andree (1874-1894)、Jacques (1875-1939)の4人の子供をもうけたが、寡夫として後半生を過ごした[2]。彼は1873年にオスマン大通りの薬局を買い取ったのち、スクリーブ通りに移転、ヌイイ=シュル=セーヌに土地を購入し、工場、研究所、地下室、温室などの設備を建てた。1880年にはコート・ダジュール、サン=ラファエル ヴァレスキュールのリゾート地に「ヴィラ・アンドレア」と名付けた別荘を建てた[7][4]

彼は多方面に顔の利く有力者の警察官、グザヴィエ・パオリと親しかった。パオリは行政関係の折衝を引き受け、著名人の人脈を活かして「マリアーニ・アルバム」の製作に協力した。

1914年4月1日、彼は「ヴィラ・アンドレア」で死去し[4]ペール・ラシェーズ墓地の62区に埋葬された[8]
コカワインの発明
開発「研究中のマリアーニ」[9]
L-E・ムーション作 (1905年)

マリアーニはコカ植物からコカインの結晶体を単離したドイツの化学者アルベルト・ニーマンに関するイタリアの医師、パオロ・マンテガッツァの研究に魅了され、ピエール・フォーヴェル博士(麻酔にコカインを使用した最初の医師のひとり)とともにマリアーニ・ワインを開発した[10]ワインにコカを混入するというアイデアは新しいものではなかったが、マリアーニはのちに自身の先駆的な役割を主張している[11]。1863年、コカワインを所望していた咽頭科のフォーヴェル医師に代わり、かすれ声に悩んでいた若い女性のオペラ歌手が薬局にやってきたとき、マリアーニはボルドーワインに3種類のコカの葉のエキスを注入したものを処方した。ディーヴァはこの「トニック・ドリンク」の小さなサンプルを味わったあと、次のように歌った。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}c'est excellent, vous m'enverrez douze bouteilles
(これは素晴らしいです。私に12本のボトルを送ってください。)
工業生産と国際生産マリアーニの温室と事務所
(1901年)[12].

自分の財産を確保するために[13]、マリアーニは「ペルー産のコカとマリアーニ・トニックワイン」と名付けた特許を取得し、それはすぐに「vin Mariani 」(マリアーニ・ワイン)の商標名で知られるようになった。この飲料はヨーロッパ全土で人気を博し、彼は名声を得た。インフルエンザの治療のために普通に処方され、神経の疾患、貧血、勃起不全の治療に効果があるとされた[14]。マリア―ニはオスマン大通りに41軒の薬局を開き、1880年にはヌイイ=シュル=セーヌのシャルトル通りに10から12棟のコカ加工工場を建設した[15]。1ボトル50サンチームで販売されたコカワインは、1ボトルあたり60グラムのコカの葉を溶媒のアルコール(おそらくコニャック)に浸けて抽出させ、ボルドーワインと6%分の砂糖を添加して作られた[16]


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