アンゴラの政党アンゴラ解放人民運動
Movimento Popular de Libertacao de Angola
議長ジョアン・ロウレンソ
成立年月日1956年12月10日
本部所在地 アンゴラ、ルアンダ
国民議会124 / 220 (56%)(2022年8月24日)
政治的思想・立場現在:
社会民主主義(自称)
以前:
マルクス・レーニン主義(公称)
極左
党旗
国際組織社会主義インターナショナル
公式サイト ⇒MPLA公式サイト
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アンゴラ解放人民運動(アンゴラかいほうじんみんうんどう、MPLA)は、アンゴラの政党。党首に相当する議長はジョアン・ロウレンソ。独立以来、党の柱であった社会主義経済政策を放棄し、複数政党制を導入しながらも、一貫して政権の座にある。現在は社会民主主義政党の国際団体である社会主義インターナショナルに加盟している。 1956年12月10日にアゴスティーニョ・ネト、マリオ・ピント・デ・アンドラーデ、ヴィリアト・ダ・クルス、アミルカル・カブラル[1]らの知識人を主体に結成された[2][3]。 1961年2月に政治犯の解放を求めてポルトガル領アンゴラの首都ルアンダの監獄を襲撃したものの蜂起は失敗に終わり、コンゴ民主共和国の首都レオポルドヴィル(現キンシャサ)に逃れた[2]。MPLAが蜂起した2月4日はアンゴラ独立戦争の開始日とされている[4]。 レオポルドヴィルには1961年3月のアンゴラ北部での蜂起を指導したホールデン・ロベルトの指導するアンゴラ人民同盟
党名
ポルトガル語ではMovimento Popular de Libertacao de Angola - Partido do Trabalhoで、略称はMPLA-PT
英語ではPopular Movement for the Liberation of Angola - Party of Labour
歴史
1974年4月25日に宗主国のポルトガルで国軍運動(英語版)(MFA)が主導したカーネーション革命によってエスタド・ノヴォ体制が崩壊し、ポルトガル植民地の独立が日程に登った。共産党と結んで保守的なアントニオ・デ・スピノラ大統領を失脚させたヴァスコ・ゴンサルヴェス新首相は、1975年1月にMPLA、FNLA、UNITAのアンゴラの三解放勢力とアルヴォール協定を結び、11月11日のアンゴラ独立を認めた[8]。しかし、1975年3月には首都ルアンダでMPLAとFNLAが衝突し、FNLAについたUNITAとMPLAとの間で抗争が始まった[9]。北部に勢力を保っていたFNLAはザイールの直接介入を要請し、南部を中心にしていたUNITAは南アフリカ共和国のアパルトヘイト政権に直接介入を要請したため、これらと戦うためにMPLAはキューバの直接介入を要請し、キューバ軍の参戦を得て首都ルアンダ防衛に成功したMPLAは同年11月11日にアンゴラ人民共和国の独立を宣言した[10][11]。1976年1月にはUNITA=FNLAがこれに対抗して樹立させていたアンゴラ民主人民共和国の政府が置かれるウアンボを陥落させた。
独立後、アンゴラの初代大統領にはMPLAのアゴスティーニョ・ネトが就任した。1976年にマルクス・レーニン主義を打ち出していたMPLAは1977年12月の第一回党大会でMPLA労働党(MPLA-PT)に改称したが[12]、一方で経済を再建するために人種に因われずにポルトガル系やメスティーソ(ムラート)の登用を行い、親西側的な経済政策を採用したため、1977年5月27日にはネト大統領のこのような政策に反対した親ソ派のニト・アルヴェス元内相がクーデター未遂を引き起こすなどの動きがあった[13]。このクーデター未遂事件の収拾をきっかけにネトはMPLA内部を自派で固めることに成功し、1979年9月10日にネトが死去した後は、ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスがネトの後継者となった[13]。
MPLA政権は外交的に非同盟路線を採用しながらも、実際には経済的にソビエト連邦の、軍事的にはキューバとドイツ民主共和国(東ドイツ)の支援を受け、1979年の段階で約2万人のキューバ軍と約2,500人東ドイツ軍の部隊がアンゴラに存在した[14]。一方、独立以来MPLA政権とUNITA=FNLA連合とのアンゴラ内戦は続き、飛び地のカビンダではカビンダ解放戦線(英語版)(FLEC)がFNLAと結んでMPLA政権への反乱を起こしていたが、MPLAは1979年までに両組織の後ろ盾となっていたザイールのモブツ政権及びフランスと国交を結んだため、両組織の勢力は減退した[15]。