アンガス・マクリーズ
Angus MacLise
アンガス・マクリーズ(1956年)
基本情報
出生名Angus William MacLise
生誕 (1938-03-14) 1938年3月14日[1]
出身地 アメリカ合衆国 コネチカット州ブリッジポート
死没 (1979-06-21) 1979年6月21日(41歳没)
ジャンルアヴァンギャルド・ミュージック、ミニマル・ミュージック、ドローン・ミュージック
職業ミュージシャン、詩人
担当楽器ドラム、ボンゴ、タブラ、パーカッション、ツィンバロム、タンバリン
共同作業者ヴェルヴェット・アンダーグラウンド
アンガス・マクリーズ(Angus MacLise、1938年3月14日 - 1979年6月21日)は、アメリカのパーカッショニスト、作曲家、詩人、オカルティスト、書家である。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの最初のドラマーとして知られており、最初の有料公演を行うバンドとの意見の不一致によって突然に脱退した。 アンガス・ウィリアム・マクリーズは、1938年3月14日、コネチカット州ブリッジポートで書籍商の息子として生まれた。パーカッショニストとしての正式なトレーニングを受けているにもかかわらず、その演奏スタイルは非常に特異なものであり、多くの人は彼が独学であると思っていた[2]。 マクリーズは、ジョン・ケイル、トニー・コンラッド、マリアン・ザジーラ、そして時にはテリー・ライリーとともに、ラ・モンテ・ヤングによるシアター・オブ・エターナル・ミュージックのメンバーとなった。彼はジョージ・ブレクトが編集した初期のフルクサス新聞「VTre」に寄稿し、マンハッタンの56ラドロー・ストリートに住んでいたときに、フラットメイトだったジョン・ケイルによってグループに連れられてヴェルヴェット・アンダーグラウンドの初期メンバーを務めた。ルー・リードが、シラキュース大学で知り合った友人のスターリング・モリソン マクリーズは、1965年にヴェルヴェット・アンダーグラウンドの最初のラインナップでボンゴとハンドドラム
略歴
生い立ち
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド
ケイルは、マクリーズを、バンドが終了してから数時間または数日後にギグに現れるような遅刻魔で、「アンガス・カレンダーで生活している」と説明している。
1965年11月にバンド初の有料公演が行われた際に、グループが商業主義的になったことを理由としてマクリーズは脱退した。彼はモーリン・タッカーと交代になり、それがヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「クラシック」ラインナップとなった。 1966年にヴェルヴェット・アンダーグラウンドのリードシンガー兼ギタリストであるルー・リードが肝炎で入院したことで、マクリーズは1966年6月21日から26日にかけて、シカゴのPoor Richard'sにて、「Exploding Plastic Inevitable」公演における5日間で復帰参加し、アンガスがタブラを演奏するように教えこんたジェラルド・マランガと役割を分担した。ケイルがリードボーカルとオルガンを引き継ぎ、ドラマーのモーリン・タッカーがベースに切り替え、マクリーズがドラムを叩いた。しかし、今では、タッカーの独特なトライバル・スタイルのドラムが、グループの音楽に不可欠となっていた。 1966年の「Exploding Plastic Inevitable」公演中、マクリーズは30分遅れて現れ、セットが終わった後に、30分におよぶドラムを叩き続け、自身の到着の遅れを補った[3][4]。 この時までに、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは(大きな経済的成功ではないにしても)ある程度の知名度を見出しており、マクリーズはグループに再び参加することを切望したが、ボックスセットのメモによると、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの主要ソングライターであり事実上のバンドリーダーであるルー・リードが、その不安定な振る舞いを理由に、マクリーズがフルタイムでバンドに復帰することを強く禁じた。 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを永久に脱退した後、マクリーズはカリフォルニア州バークレーに移り、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークにおける結婚式でヘティ・マギーと結婚した[5]。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドへの短期間の復帰
後年