アンカラの戦い
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アンカラの戦い

ムガル帝国期に描かれたアンカラの戦いの細密画

時1402年7月20日、あるいは7月28日
場所アンカラ近郊のチュブク草原
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度09分 東経32度57分 / 北緯40.150度 東経32.950度 / 40.150; 32.950座標: 北緯40度09分 東経32度57分 / 北緯40.150度 東経32.950度 / 40.150; 32.950
結果

ティムール朝の勝利

オスマン帝国の空位時代の始まり


衝突した勢力
ティムール朝オスマン帝国
指揮官
ティムール
シャー・ルフ
ミーラーン・シャー
ムハンマド・スルタン
ハリール・スルタン
ピール・ムハンマド
シャーヒ・シャハーン
カラ・ユルク・オスマン[1]
ヤクプ2世[2]バヤズィト1世
スレイマン・チェレビー
メフメト・チェレビー
イサ・チェレビー
ムサ・チェレビー
ムスタファ・チェレビー
ステファン・ラザレヴィチ
ヴク・ラザレヴィチ
ジュラジ・ブランコヴィチ
ジョン・カストリオティ
戦力
140,000[3]85,000[4]?120,000[5]
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} トルコにおける位置

アンカラの戦い(オスマン語: ????? ?????????‎)とは、1402年7月20日[6][7][8]、あるいは7月28日[9])にアンカラ近郊のチュブク草原で、オスマン帝国スルターン(君主)であるバヤズィト1世と、ティムール朝の大アミール(君主)であるティムールの間で行われた戦闘である。戦闘はティムールの勝利に終わり、ティムールが自軍に不利な場所での戦闘を回避したこと[10]、アナトリアのベイリク(君侯)から情報を得て裏工作を終えていたため[10]、戦闘でオスマン軍から離脱者が続出したこと[8][10]が勝因に挙げられている。この戦闘はティムールにとって大きな勝利であり、またオスマン帝国に空位時代をもたらした[11]
背景

トランスオクシアナの遊牧民であるティムールは長い年月をかけて中央アジアに一大帝国を築き上げ、チンギス・カン以来中央アジアで最も強力な支配者となった[12]。1380年代から1390年代にかけてアゼルバイジャンと上メソポタミアを含むペルシアの一部を征服し、1395年から1396年の間にロシア南部とウクライナに侵入し、1398年にデリーを略奪した[13]。他方、1389年のコソヴォの戦いの後に即位したバヤズィトは1391年から1393年にかけてアナトリア半島ベイリクを併合し、アナトリア西武から東北部にかけての地域を支配下に置いた[14]。しかし、バヤズィトに征服されたベイリクの君主たちはティムールの宮廷に亡命し、再起を図っていた[15]。アナトリアでの勢力を広げた後、バヤズィトはバルカン半島に渡り、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、ハンガリー王国などのキリスト教勢力と交戦した。

1393年8月にバグダードを占領したティムールはエジプトを支配するマムルーク朝に友好の使者を送るが、マムルーク朝のスルターン・バルクークはティムールの申し出を拒否し、使節を拘留した[16]。敵対的なバルクークの態度に対して、ティムールはシリア遠征を企図するが、バルクークは周辺の国家を糾合して反ティムール連合を結成したため、ティムールは遠征を中止した[17]。バルクークに同調した勢力の中にはジョチ・ウルストクタミシュ、エレトナ侯国(英語版)のブルハネッディン(en)のほかに、バヤズィトも含まれていた[17]。マムルーク朝を中心とする反ティムール連合からオスマン帝国を引き離すため、1395年にティムールはバヤズィトに相互不可侵条約の締結を提案したが、色よい返事は得られなかった[18]

1400年[19]にバヤズィトはエルズィンジャン侯国(英語版)の君主であるムタッハルタン(英語版)(タハルテン)に貢納を強制する書簡を送るが、タハルテンはティムールに臣従していたため、ティムールにバヤズィトから受けた圧力を報告し、ティムールとバヤズィトの間の緊張は高まった[15]。バヤズィトはイラン北東部を支配する黒羊朝の{{仮リンク|カラ・ユースフ|en|Qara Yusuf}にエルズィンジャン侯国への攻撃を扇動し、ティムールが黒羊朝の領土を占領した後、オスマン軍はティムールが占領した地域に攻撃を行った[20]。ティムールはバヤズィトに捕虜の返還を求める書簡を送り、相手の地位を認めながらも武力の行使を示唆したが、バヤズィトは挑発的な回答を返し、両者の対立は決定的になった[21]

ジョージア(グルジア)南部に進軍したティムールはバヤズィトに降伏を勧める書簡を送り、エルズルムユーフラテス川沿岸のケマハを占領した。ティムールのもとにビザンツ帝国、ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国の使者が訪れ、ティムールの勝利を祈願し、協力を申し出たが、ティムールはヨーロッパ諸国を利したことで同胞のイスラム教徒から非難されることを恐れ、戦闘と並行してバヤズィトの悪評を広げた[22]スィヴァスでティムールはバヤズィトの使者から贈物と挑発的な書簡を受け取るが、使者に自軍の兵力を誇示して威圧し、送り返した[23]

一方、オスマン帝国は1402年にヨーロッパで遠征を実施し、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに包囲を敷いていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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