公用語ペルシア語、ウルドゥー語、ヒンディー語
首都ファイザーバード、ラクナウ
ナワーブ
1722年 - 1739年サアーダト・アリー・ハーン
1739年 - 1754年サフダル・ジャング
1754年 - 1775年シュジャー・ウッダウラ
1775年 - 1798年アーサフ・ウッダウラ
1847年 - 1856年ワージド・アリー・シャー
変遷
サアーダト・アリー・ハーンが太守となる1722年
サフダル・ジャングが太守となる1739年
ブクサールの戦い1764年
ラクナウ遷都1781年
領土の約半分を割譲・藩王国化1801年
アワド藩王国の併合1856年
通貨ルピー
アワド太守(アワドたいしゅ、ヒンディー語: ??? ?? ????, ペルシア語: ????? ???, 英語: Nawab of Awadh/Oudh)とは、ムガル帝国の北インド、アワド地方(現在のガンジス川中流域、現ウッタル・プラデーシュ州東部を指す)の地方長官、つまり太守(ナワーブ)のことである。1801年以降はアワド藩王国となる。首府はファイザーバード、ラクナウ。 「アワド」という名前の由来は、ラーマ神誕生の地「アヨーディヤー」に由来し、古来より数々の王朝がこの肥沃な地を領有した。 13世紀以降、デリー・スルターン朝の支配下でも重要な地域であり、14世紀末から15世紀末にかけては一時デリーから独立したジャウンプル・スルターン朝が栄えた。 16世紀後半以降、アワドはムガル帝国の一州となり、ベンガルと同じように肥沃な土地を持った重要な州として、帝国の一部を形成した。なお、この州はバフラーイチ
歴史
設置
1707年、ムガル皇帝アウラングゼーブの死後、ムガル帝国では反乱が相次ぎ、その広大な領土は徐々に解体されていき、ニーシャープール出身のイラン系貴族であるアワド太守サアーダト・アリー・ハーンもまた、帝国に見切りをつけようとしていた。サアーダト・アリー・ハーンはアウラングゼーブの部下の一人で、イランのサファヴィー朝からインドに移住してきた人物でもあった。
1722年、サアーダト・アリー・ハーンは皇帝ムハンマド・シャーによりアワド太守に任命された[1]。彼は皇帝ムハンマド・シャーから「ブルハーヌル・ムルク」の称号を与え重用されていたが、1724年にムガル帝国に見切りをつけてアワドで独立し、事実上この地域は帝国の領土ではなくなった。辞典などでは、成立したこの国家を1724年から滅亡した1856年までを一貫して「アワド王国」としているが、正式にムガル帝国から独立したのは1819年で、それまでは帝国の主権を認めて皇帝の名で硬貨を発行しており(これは1818年まで)、文献によっては王国とは呼ばない場合もあるので、ここではこの国家は「地方政権」として扱う。
同年には、宰相のアーサフ・ジャー(ニザームル・ムルク)もデカンのハイダラーバードで独立してニザーム王国を樹立するなど、ムガル帝国はアワドやハイダラーバードの独立になす術がなく、帝国はその解体に歯止めが利かなかった。
1739年、サアーダト・アリー・ハーンはカルナールの戦いに参加し、デリーでナーディル・シャーに捕えられ、 3月19日に監禁されたまま死亡した[1]。