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アロー戦争
第二次アヘン戦争
大沽砲台へ攻撃したイギリス軍の67歩兵隊
時1856年6月28日 - 1860年8月
場所大清帝国(現在の中国)
結果イギリス、フランス連合軍の勝利。天津条約、北京条約の締結。
衝突した勢力
清 イギリス
イギリス領インド帝国
フランス帝国
アメリカ合衆国
ロシア帝国
指揮官
センゲリンチン ヴィクトリア
パーマストン子爵
エルギン伯爵ジェイムズ・ブルース
ナポレオン3世
ジャン・バティスト・ルイ・グロ
アロー戦争(アローせんそう、中: 第二次鴉片戰爭、英: Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。最終的に北京条約で終結した。戦争の理由の一つであった、中国人による多くの外国人排斥事件のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本ではアロー戦争と呼称される場合が多い。また、この戦争がアヘン戦争に続いて起きたために、第二次アヘン戦争(Second Opium War)と呼ぶこともある。目次 1839年9月に武力行使が始まったアヘン戦争の講和条約として、1842年に締結された南京条約の規定により、英国は清国に対し、従来の広東(広州)に加えて、厦門、福州、寧波、上海の計5港を開港させ、それぞれに領事を置くこと、さらには香港の割譲も認めさせた。そして、広東十三行のような特許商人が貿易を独占して徴税請負を行い、外国商人や外国船の保証人となって、それらを強い、統制下に置く、という従来の制度を廃止させた。また、南京条約締結後約一年の間に結ばれた諸協定により、公正公平な関税率の設定、領事裁判権、最恵国条項、開港五港にそれぞれ軍艦一隻を停泊できる権利などが取り決められた。また清国中央政府は公式には認めていないが、当時の欽差大臣耆英が長江河口以南のアヘン貿易を非公式に黙認した。 南京条約及びその後結ばれた諸協定により、香港に駐在する英国公使兼香港総督に対する中国側の外交の窓口は、広東(広州)にほぼ常駐することとなる広東欽差大臣が担うこととなった。これによって、英国側の清国官吏との接触方法が、アヘン戦争前の公行商人を介在させた間接的な仕組みから大きく改善し、直接接触が可能となった。また開港五港の各英国領事は道(省の下に置かれた行政区分)に置かれた道台(道の長官)と接触することが可能となった。
1 アロー号拿捕事件
2 開戦
3 北京条約
4 日本への影響
5 画像
6 脚注
7 関連項目
アロー号拿捕事件