アレッポ城
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アレッポ城
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シリアアレッポ
アレッポの城塞(2010年)
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座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度11分57秒 東経37度09分45秒 / 北緯36.19917度 東経37.16250度 / 36.19917; 37.16250
種類城塞
施設情報
管理者シリア・アラブ共和国
現況部分的に崩壊
歴史
建設紀元前3千年記 ? 12世紀
使用期間? 20世紀
建築資材石灰岩
1912年のアレッポの地図。城塞が都市の中央にある。

アレッポ城(アレッポじょう、英語: Citadel of Aleppo 〈Aleppo Citadel〉、アラビア語: ???? ???‎)は、シリア北部に位置する都市アレッポの旧市街の中心にある大規模な中世の要塞である。この建造物は世界で最古かつ最大の城の1つであると見なされている。城塞(シタデル、: Citadel)の丘の利用は、少なくとも紀元前3千年紀中頃にさかのぼる。その後、ギリシア東ローマ帝国(ビザンティン帝国)、アイユーブ朝マムルーク朝など多くの文明国によって占拠され、今日にあるその構造物の大部分は、アイユーブ朝時代に起源があると考えられる。大規模な保存事業が2000年代、アレッポ考古学協会とともにアガ・カーン・ トラスト・フォー・カルチャー (Aga Khan Trust for Culture) により行なわれた。都市を見下ろす城塞は、1986年、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録された古代都市アレッポの一部である[1]。城塞は、シリア内戦により大きな損傷を受けている[2]
歴史城塞内にあるハダド神殿

20世紀後半に発見された嵐の神ハダドの古代神殿は、エブラおよびマリ楔形文字の文書に記されており、丘の利用は紀元前3千年記の中頃にさかのぼる[3][4]。神殿は、ドイツの考古学者カイ・コールマイヤーらによる発掘と、そのなかで発見されたレリーフからも明らかなように、紀元前3千年記中頃から、少なくとも紀元前9世紀まで使われ続けていた[5][6]。その都は紀元前2千年紀前半にヤムハドの首都となり[4]、「ハダドの都」として知られていた[7]

預言者アブラハムは城塞の丘の上で彼の羊の乳を絞ったといわれる[8]。アレッポを中心とした新ヒッタイト (Neo-Hittite) 衰退の後、アッシリアがその区域を支配し(紀元前8-4世紀)、それに新バビロニアおよびペルシア帝国が続いた(紀元前539-333年)[9]
セレウコス朝

アレッポは、アレクサンドロス大王の軍に攻め落とされた後、ベロエア (Beroea[10]、ベロイア〈Beroia[11]〉) という新たな名のもと、その都市の再建に着手したセレウコス1世により支配された[12]。中世アラブの歴史家によれば、要塞化されたアクロポリスとしての城塞の歴史はニカトール(Nikator、「勝利者」〈セレウコス1世〉)のもとで着手されたといわれる[4][13]。要塞の一部の区域にはヘレニズム時代の遺構が下部2メートル以内にある。アレッポの南地区にはまだヘレニズムの方格の道路設計が保たれており、列柱道路(英語版)が西から城塞の丘にかけて通じていた[14]
ローマ・東ローマ帝国

ローマが紀元前64年にセレウコス朝を退けた後も、城塞の丘は宗教的意義を持ち続けていた。神ハダドはゼウスと同一視された[15]。皇帝ユリアヌスは西暦363年にアレッポを訪れ、「私は一日そこに滞在し、アクロポリスを訪れて帝の習わしによりゼウスに白い牡牛を捧げ、神々の崇拝について町議会と短い話をした」と記している。城塞においてローマ期の物的な遺構はほとんど発見されていない[16]

ローマ帝国は395年、東西2つの部分に分割された。アレッポは東半分の東ローマ帝国にあった。7世紀のサーサーン朝の王ホスロー2世との衝突時には、都市の防壁がひどい状態にあったため、アレッポの住民が城塞に避難してきたといわれる。現在、東ローマ帝国時代からの遺構は城塞の丘でほとんど見られない。城塞内にある2つのモスクは、東ローマ帝国時代に当初建てられた教会から転換されたことが知られている[13][16]
イスラーム初期

西暦636年にムスリムの部隊がアレッポを攻略した[17]。大地震の後、城塞において修復が行なわれたことが文書に記されている。初期のイスラーム時代における城塞については、アレッポがウマイヤ朝アッバース朝の統治下にある辺境の町であったこと以外、ほとんど知られていない[18]

ハムダーン朝のサイフ・アル=ダウラ(英語版)(Sayf al-Dawla、「国家の剣」[19]、在位944-967年)が、944年にアレッポを征服し、その後、政治的かつ経済的再生が高まった[18][20]。ハムダーン朝では河岸に壮麗な宮殿が建てられたが、962年、東ローマ帝国軍に攻撃された後、城塞に移行した。ハムダーン朝の統治における不安定な時代には、東ローマ帝国やベドウィンの攻撃、エジプトを拠点とするファーティマ朝による短期支配が見られた。ミルダース朝(英語版)の時代には、2つの教会がモスクに転換されたといわれる[21]
ザンギー朝アブラハムのモスク

城塞は11世紀末の近東における十字軍駐留以降の時代にその重要度が頂点に達した[4]ザンギー朝の支配者イマード・アッ=ディーン・ザンギー(Imad ad-Din Zengi、在位1127-1146年)と、それに続く息子のヌール・アッ=ディーン(Nur ad-Din、在位1146?1174年)はアレッポとダマスカスの統合に成功し、都市への攻撃を繰り返した十字軍を押しとどめた[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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