アレッサンドロ・モレスキ(Alessandro Moreschi, 1858年11月11日 - 1922年4月21日)は、19世紀から20世紀にかけて活躍したイタリアの男性ソプラノ歌手。記録に残っている歴史上最後のカストラートとされている。
存命中は「ローマの天使」と呼ばれ、賞賛された。1873年、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の聖歌隊にソプラノとして採用され、1883年にはシスティーナ礼拝堂の聖歌隊に採用された。どちらの聖歌隊でも、独唱をつとめている。1898年にはシスティーナ礼拝堂聖歌隊で指導者の職も兼ね、1913年までここにつとめていた。その後サン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊に招かれ、1914年に現役を退いた。1922年、ローマにて肺炎で死去した。
同時期に活躍したカストラートには、ドメニコ・ムスタファ(Domenico Mustafa, 1829年 - 1912年)がおり、イタリア随一の声楽教師として名高かった。 アレッサンドロ・モレスキは、ローマから20マイル(約32キロメートル)ほど離れた丘の上の小さな町モンテ・コンパトリで生まれた。彼は7番目の子供で三男である。妹が2人いたが、いずれも1歳と3歳で亡くなった。 初等教育が義務化されるのは1877年以降だが、アレッサンドロは数年間小学校に通っているので、家は極貧ではなかったようである。 彼が、声を高く保つための手術を受けたのは、パトリック・バルビエによれば1865年頃だとされている[1]。それが、男性ソプラノ歌手としての職を得るためだったのか、それとも、病気や事故というやむを得ぬ事情のためなのかは不明である。正当な理由のない去勢手術は表向きには禁止されていたため、当時の記録や関係者の発言は残っていない。19世紀後半には、名カストラートたちが、オペラの舞台でプリモ・ウォーモを務めて喝采をあびたバロック時代は遠い過去のことであり、少年が適切な声楽教師をみつけることは、あまり易しいことではなかったとされている[2]。 1870年、教皇領はイタリア王国軍に占領され、ローマ教皇庁は世俗に対する権力を失った。それまでも建て前上禁じられていた少年に対する手術は、公式に違法となった。 1871年、モレスキは声楽の勉強のために、ナザレノ・ロザーティ(1817年 - 1877年)に連れられてローマへ到着した。ロザーティはフランシスコ会の修道士であり、24歳から25年間、システィーナ礼拝堂に所属し、テノールとコントラルトの両方で歌っていた。1871年には聖歌隊を引退しており、才能ある少年をスカウトする役目を担っていた。 モレスキは後年フランツ・ハーベックに語るとき、ロザーティを「私の最初の先生」と呼んでている(ハーベックはウィーンの音楽学者で『カストラートとその歌唱芸術』を著し、カストラート研究とそのレパートリーの復興に尽力した人物。ローマで引退後のモレスキにインタビューをおこなった)。 ナザレノ・ロザーティに歌の才能を認められたアレッサンドロ少年は、サン・サルヴァトーレ・イン・ラウロ教会に附属する聖歌隊員養成のための音楽学校に入った。この学校で、実際に生徒たちを教えるのは、ローマの3つの大聖堂の聖歌隊指導者たちだった。すなわち、サン・ピエトロ大聖堂のサルヴァトーレ・メルッツィ(1813年 - 1897年)、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のセッティモ・バッタリア(1815年 - 1891年)、そしてサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂のガエターノ・カポッチ(1811年 - 1898年)だ。モレスキは、教会音楽の作曲家でオルガン奏者のガエターノ・カポッチから教えを受けた。 1873年7月、アレッサンドロは15歳になる前に、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の聖歌隊にソプラノとして採用された。しばらくすると、独唱を任されるようになる。また、カポッチが指導し、ローマの上流階級のサロンを中心に活動していた、ソリストたちの声楽グループの一員にもなった。彼が歌った、グノーのオペラ『ファウスト』の中のマルグリートのアリア「宝石の歌」を聴いたあるアメリカ人女性が次のように書き残している。土曜の夜サロンにて、教皇庁聖歌隊の歌手たちの歌を聴きましたが、大変素晴らしいものでした。ラテラノ大聖堂のソプラノとして有名なモレスキは、ひとつひとつの音に涙をこめて歌い、ブレスはどれも、ため息をつくかのようです。 「宝石の歌」は、純朴な少女マルグリートが、悪魔メフィストの残した宝石を身に付け、鏡に映る美しいわが姿に感動して歌うアリアである。「ああ、この鏡に映るあたしの姿は、なんて美しいのでしょう! この淑女の姿を彼(ファウスト)が見てくれたら、きっときれいだと言ってくださるわ!」と、フランス語で歌うモレスキを聴いた先の女性は、「いえ、ちっとも! と答えて差し上げたくなる」と記している。 また彼は、1878年にはイタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の葬儀で歌っている。 モレスキは、その声の美しさから「ローマの天使」と謳われていたが、それはゆえなきことではない。1883年に彼は、ベートーヴェンのオラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』における熾天使セラフィムの役を歌った。3点E(E6)とコロラトゥーラの技法が要求される難役を見事につとめたことで、以後彼の名が新聞に載るときにはいつも、この二つの名で呼ばれるようになった。 この成功のあとで、彼はシスティーナ礼拝堂聖歌隊のオーディションを受けた。当時、礼拝堂聖歌隊を指導していたのは、イタリア随一の声楽教師と名高い、教皇聖歌隊終身指揮者のドメニコ・ムスタファ モレスキはムスタファに才能を認められ、システィーナ礼拝堂聖歌隊の第一ソプラノを任命された。礼拝堂聖歌隊にはすでに6人のカストラートの歌手が在籍していたが、彼らはそれほど卓越した声の持ち主ではなかった。 システィーナ礼拝堂聖歌隊においても、モレスキはやがて独唱を受け持つようになり、1898年には聖歌隊指揮者も兼任するようになった。また1900年には、ローマのパンテオンで執り行われた、イタリア国王ウンベルト1世の葬儀でも歌っている。だが、300年の永きに渡って受け継がれてきたシスティーナ礼拝堂の伝統にも、変化の兆しが見え始めていた。1898年、高齢になった終身指導者ムスタファの補佐役として、20代の教会音楽作曲家ロレンツォ・ペロージ(1872年 - 1956年)が赴任してきた。この人物は、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂で聖歌隊指揮者を勤めていた人物で、聖歌隊におけるカストラートの雇用を根絶するために奔走する。高声部のためには、少年たちを雇えばよいと主張した。ムスタファにも、高声パートをカストラートのみで独占する考えはなく、少年たちの入隊を許可する改革をおこなっていたが、カストラートは思春期前の短い時期だけ聖歌隊に所属する子供たちとは違って、人生のほとんどの時期を音楽によって神を讃えることに捧げるのだから、少年たちより適性がある、と主張していた。 1903年、結局ペロージはレオ13世を説得することに成功し、老齢の巨匠ムスタファはその職をペロージにゆだね、聖歌隊を去った。
経歴
幼少期
若き日の活躍
時代の変化