アレッサンドラ・ムッソリーニ
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イタリア政治家アレッサンドラ・ムッソリーニAlessandra Mussolini
上院議員時代の肖像写真(2013年)
生年月日 (1962-12-30) 1962年12月30日(61歳)
出生地 イタリア
ラツィオ州ローマ県ローマ
出身校ローマ・ラ・サピエンツァ大学
前職医師女優歌手モデル
所属政党イタリア社会運動
(1992-1995)
国民同盟
(1995-2003)
社会行動
(2003-2009)
自由の人民
(2009-2013)
フォルツァ・イタリア
(2009-2018)
無所属
(2019-2020)
配偶者マウロ・フロリアーニ
親族ベニート・ムッソリーニ(祖父)
ロマーノ・ムッソリーニ(父)
ソフィア・ローレン(伯母)
イタリア共和国
下院議員
当選回数5回
在任期間1992年6月28日 - 2004年7月19日
2008年4月29日 - 2014年6月30日
イタリア共和国
上院議員
当選回数1回
在任期間2013年3月8日 - 2014年6月30日
欧州議会議員
(中部イタリア選挙区)
当選回数2回
在任期間2004年7月20日 - 2008年4月28日
2014年7月1日 - 2019年7月2日
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アレッサンドラ・ムッソリーニ(Alessandra Mussolini、1962年12月30日 - )は、イタリア政治家女優医師

ファシスト独裁者として知られるベニート・ムッソリーニの孫娘であり、女優ソフィア・ローレンの姪にあたる。ネオ・ファシストの政治家として下院議員(5期)、上院議員(1期)、欧州議会議員(2期)を歴任した。
経歴
生い立ち

1962年12月30日イタリアラツィオ州ローマに音楽家ロマーノ・ムッソリーニとアンナ・マリア・シッコローネの長女として生まれる。父ロマーノは名が示す通り、王政期のイタリアで独裁体制を築いた国家ファシスト党(PNF)のベニート・ムッソリーニ首相とその後妻ラケーレ・グイーディの三男(前妻イーダ・ダルセルとの子を含めれば四男)であったが、政治とは距離を取ってピアニストとして生計を立てていた。そのため、第二次世界大戦前後の騒乱に巻き込まれず、共和制に移行した戦後イタリアで静かな日々を送っていた。

一方、母アンナもアカデミー賞女優として知られるソフィア・ローレンの実妹であり、むしろ当初はこちらの血縁の方が彼女の人生に強い影響を与えた。
芸能活動

1970年代からソフィアの元で養育を受け、アカデミー賞及びゴールデングローブ賞の外国映画部門にノミネートされた『特別な一日』で映画デビューを果たし、主演を務める伯母と共演した。以後、「大女優の姪」として女優の他にモデル・歌手など様々な活動を展開した。精力的な芸能活動の傍ら、学業ではアメリカンスクールを経てローマ・ラ・サピエンツァ大学医学部に入校して医師免許取を取得、1986年に修士課程も修了している。

歌手業では1982年に日本アルファレコードから日本語歌詞のポップスを多数収録したアルバムを限定リリース、日本のみの展開ということもあって欧米諸国で話題を集めた[1]。モデル業では肉感的な体を武器にしていた叔母ソフィアに倣ってグラマー写真を中心に活動[2]、イタリア版及びドイツ版『PLAYBOY』ではヌード撮影にも挑んでいる[3][4]

またこの時期には日本の歌手・沢田研二のオリジナルアルバム『JULIE SONG CALENDAR』に収録されている「CHI SEI(君は誰)」の作詞も手掛けている[5]

1989年、税関吏マウロ・フロリアーニと結婚、翌年にイスラエル映画『???? ???? ????』(Ha-Derech L'Ein Harod)を最後に芸能界からは引退した。ある映画プロデューサーに「ムッソリーニ姓を名乗らないこと」を勧められた為であると語っている[6]。引退後は医師活動と家庭生活に専念して、外科医として勤務しつつカテリーナ、クラリッサ、ロマーノの一男二女を育てた。その際、子供たちが母方の姓も名乗れるようにするための複雑な法的手続きを行っている。
政治活動
イタリア社会運動

1992年、共和ファシスト党(PFR)の後継政党であるイタリア社会運動(MSI)からムッソリーニの孫娘として下院選挙のナポリ選挙区に擁立され、新人候補ながら初当選を勝ち取って下院議員となった。1993年11月、今度はナポリ市長選挙に出馬。決選投票まで駒を進めているが、イタリア民主党のアントニオ・バッソリーノ(英語版)候補に敗れた。1994年、カンパニア州第1選挙区から出馬して下院議員に再選された。

1990年代から2000年代にかけて行われたジャンフランコ・フィーニ書記長による穏健化改革が進み、イタリア社会運動国民同盟に再編され、2001年には悲願であった政権参加が達成される。1996年、国民同盟の候補としてカンパニア州第1選挙区で下院議員に三選した。この頃から党の方向性を巡ってフィーニ書記長とは政治的対立が生じるようになったが、一度は和解して国民同盟に留まっている[7]。2001年、カンパニア州第1選挙区で当選して下院議員の4期目を迎え、同年にテレビのトークショーでイタリア共産主義者党出身のカティア・ベルリッロ(英語版)機会均等大臣を「醜いコミュニスト」「キューバに移民したらいい」と痛罵している[6][8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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