アレクセイ・カレージン
[Wikipedia|▼Menu]

アレクセイ・マクシーモヴィチ・カレージン
Алекс?й Максимовичъ Калединъ
生誕
1861年10月12日[1]
ロシア帝国ドン軍管州・ウスチ=ホピョールスカヤ本営
死没1918年1月29日[2]
ドン軍管州ノヴォチェルカースク
所属組織 ロシア帝国軍
ドン・コサック軍
義勇軍
軍歴1879年 - 1917年
最終階級騎兵大将
テンプレートを表示

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

アレクセイ・カレーディン

アレクセイ・カレディン

アレクセイ・カレヂン

アレクセイ・マクシーモヴィチ・カレージン(ロシア語:Алекс??й Макси?мовичъ Кале?динъ[3][4]アリクスィェーイ・マクスィーマヴィチュ・カリェーヂン、1861年10月12日[1] - 1918年1月29日[2])は、ロシア帝国出身の軍指揮官騎兵大将である。白軍の中でも最も著名な指揮官のひとりで、ドン・コサック軍アタマンを務めた。正教徒
目次

1 概要

1.1 初期

1.2 軍での勤務

1.3 第一次世界大戦

1.4 ドンのアタマン

1.5 ボリシェヴィキとの戦い


2 経歴

2.1 軍指揮官

2.2 階級


3 家族

3.1 妻

3.2 先祖

3.3 兄弟

3.4 姉妹


4 関連事項

5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

8 外部リンク

概要
初期

コサックのM・D・カレージンの曾孫、陸軍少佐V・M・カレージンの、コサック軍長老のM・V・カレージンの子息として、1861年10月12日[1]ドン軍管州・ウスチ=ホピョールスカヤ本営・カレージン村に生まれた[5]

ウスチ=メドヴェージツカヤ模範ギムナージヤで教育を受けた。その後、ヴォローネシュ軍事ギムナージヤに転校した。同校は、のちにミハイロフスキイ幼年学校に改称した。第2コンスタンチーノフスコエ砲術学校とミハイロフスキイ砲術学校を卒業した。参謀本部ニコライ海軍アカデミーを第1級で卒業し、参謀本部に入った。

1879年9月1日[6]からロシア帝国軍において将校として勤務を始め、十月革命の起こる1917年10月25日[7]まで軍に在籍した。職歴書には、「ザバイカル・コサック軍騎馬砲兵中隊出身の将校。1879年9月1日より勤務に入る」と書かれていた。
軍での勤務

1879年8月にはコサック少尉となり、1879年9月1日[6]から騎馬砲兵コサック中隊小隊長を務めた。1882年8月7日には、コサック中尉に昇進した。同年4月10日にはコサック2等大尉に昇進し、同年9月26日からは参謀本部2等大尉となった。同年11月26日からは、第6歩兵師団司令部上級副官に任官した。1890年には、法定の1 年間の指揮として騎兵中隊長を務めた。

1891年4月21日には、参謀本部少佐に昇進した。1892年4月27日には、第5陸軍軍団司令部委任尉官となった。同年10月12日からは、ワルシャワ軍管区司令部上級副官補佐を務めた。1895年7月14日にはドン軍軍司令部上級副官となり、同年12月6日付けで参謀本部中佐に昇進した。1897年には、聖アンナ3等勲章を受章した。

1899年12月6日には、参謀本部大佐に昇進した。1900年4月5日からは、第64歩兵予備旅団指揮佐官を務めた。1902年には、聖スタニスラフ2等勲章を受章した。1903年7月25日からは、ノヴォチェルカースク・コサック士官学校長に就任した。1906年8月25日には校長を退職して、1910年までドン・コサック軍副長に任官した。

1907年5月31日付けで参謀本部少将となった。1910年6月9日からは、第11騎兵師団第2旅団長を務めた。1912年10月には、第12騎兵師団長に就任した。
第一次世界大戦

第一次世界大戦では、引き続き第12騎兵師団を指揮してガリツィアの戦いをはじめとする多くの軍事作戦や戦闘に参加した。1914年には、参謀本部中将に昇進した。同年10月12日にグニラーヤ・リーパ川沿いのルダー村で発生した戦闘における功績に対し、聖大致命者凱旋者ゲオルギイ4等勲章が授章された。

隊つき指揮官として、カレージンは入念さと勇気で秀でていた。A・I・デニーキン将軍は、カレージンは戦場へ軍隊を送るのではなく、自らそこへ率いていったと言及している。しかしながら、それゆえに戦場で重傷を負い、1915年2月16日付けで第12騎兵師団長を退任することになった。

1915年8月には歩兵大将となり、第12陸軍軍団長に就任した。1915年9月12日にカールシュにて発生した戦闘における功績に対し、聖大致命者凱旋者ゲオルギイ3等勲章が授与された。1916年4月からは、第8軍司令官を務めた。

軍指揮官としての彼の有能さは、1916年5月のブルシーロフ攻勢でも発揮された。カレージン将軍の軍はオーストリア=ハンガリー帝国の第4オーストリア軍を粉砕し、9 日のあいだに70 ヴェルスタの距離を前進したのである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef