アレクセイ・マクシーモヴィチ・カレージン
Алекс?й Максимовичъ Калединъ
生誕1861年10月12日[1]
ロシア帝国・ドン軍管州・ウスチ=ホピョールスカヤ
この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。
アレクセイ・カレーディン
アレクセイ・カレディン
アレクセイ・カレヂン
アレクセイ・マクシーモヴィチ・カレージン(ロシア語:Алекс??й Макси?мовичъ Кале?динъ[3][4]アリクスィェーイ・マクスィーマヴィチュ・カリェーヂン、1861年10月12日[1] - 1918年1月29日[2])は、ロシア帝国出身の軍指揮官、騎兵大将である。白軍の中でも最も著名な指揮官のひとりで、ドン・コサック軍のアタマンを務めた。正教徒。 コサックのM・D・カレージン
目次
1 概要
1.1 初期
1.2 軍での勤務
1.3 第一次世界大戦
1.4 ドンのアタマン
1.5 ボリシェヴィキとの戦い
2 経歴
2.1 軍指揮官
2.2 階級
3 家族
3.1 妻
3.2 先祖
3.3 兄弟
3.4 姉妹
4 関連事項
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
概要
初期
ウスチ=メドヴェージツカヤ模範ギムナージヤで教育を受けた。その後、ヴォローネシュ軍事ギムナージヤに転校した。同校は、のちにミハイロフスキイ幼年学校に改称した。第2コンスタンチーノフスコエ砲術学校とミハイロフスキイ砲術学校を卒業した。参謀本部ニコライ海軍アカデミーを第1級で卒業し、参謀本部に入った。
1879年9月1日[6]からロシア帝国軍において将校として勤務を始め、十月革命の起こる1917年10月25日[7]まで軍に在籍した。職歴書には、「ザバイカル・コサック軍騎馬砲兵中隊出身の将校。1879年9月1日より勤務に入る」と書かれていた。 1879年8月にはコサック少尉
軍での勤務
1891年4月21日には、参謀本部少佐に昇進した。1892年4月27日には、第5陸軍軍団司令部委任尉官となった。同年10月12日からは、ワルシャワ軍管区司令部上級副官補佐を務めた。1895年7月14日にはドン軍軍司令部上級副官となり、同年12月6日付けで参謀本部中佐に昇進した。1897年には、聖アンナ3等勲章を受章した。
1899年12月6日には、参謀本部大佐に昇進した。1900年4月5日からは、第64歩兵予備旅団指揮佐官を務めた。1902年には、聖スタニスラフ2等勲章を受章した。1903年7月25日からは、ノヴォチェルカースク・コサック士官学校長に就任した。1906年8月25日には校長を退職して、1910年までドン・コサック軍副長に任官した。
1907年5月31日付けで参謀本部少将となった。1910年6月9日からは、第11騎兵師団第2旅団長を務めた。1912年10月には、第12騎兵師団長に就任した。 第一次世界大戦では、引き続き第12騎兵師団を指揮してガリツィアの戦い
第一次世界大戦
隊つき指揮官として、カレージンは入念さと勇気で秀でていた。A・I・デニーキン将軍は、カレージンは戦場へ軍隊を送るのではなく、自らそこへ率いていったと言及している。しかしながら、それゆえに戦場で重傷を負い、1915年2月16日付けで第12騎兵師団長を退任することになった。
1915年8月には歩兵大将となり、第12陸軍軍団長に就任した。1915年9月12日にカールシュにて発生した戦闘における功績に対し、聖大致命者凱旋者ゲオルギイ3等勲章が授与された。1916年4月からは、第8軍司令官を務めた。
軍指揮官としての彼の有能さは、1916年5月のブルシーロフ攻勢でも発揮された。カレージン将軍の軍はオーストリア=ハンガリー帝国の第4オーストリア軍を粉砕し、9 日のあいだに70 ヴェルスタの距離を前進したのである。