この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "アレクシオス3世アンゲロス"
アレクシオス3世アンゲロス
Αλ?ξιο? Γ? ?γγελο?
Alexios III Angelos
東ローマ皇帝
在位1195年4月8日 - 1203年7月18日
出生1156年
死去1211年
配偶者エウフロシュネ
子女エイレーネー
アンナ
エウドキア
王朝アンゲロス王朝
父親アンドロニコス・アンゲロス
母親エウフロシュネ
テンプレートを表示
アレクシオス3世アンゲロス(Αλ?ξιο? Γ? ?γγελο?, Alexios III Angelos、1156年 - 1211年)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の第2代皇帝(在位:1195年 - 1203年)。初代皇帝・イサキオス2世アンゲロスの弟である。 アンドロニコス・アンゲロス
生涯
即位前まで
その後は帝国の宰相・元帥に任じられて兄の治世を補佐したが、次第に兄と対立し、1195年にはクーデターを起こして兄を幽閉して廃位し、自らがアンゲロス王朝の第2代皇帝として即位した。 アレクシオス3世は兄以上に無能な皇帝で、それに暴君・暗愚を加えてもいい人物だった。兄の時代から対立関係にあった神聖ローマ皇帝・ハインリヒ6世の圧力に屈して膨大な献納金を要求されると、歴代皇帝の墓所を暴いて装飾品を尽く処分する暴挙を行なった。さらに兄が財政再建のために交易の利害から優遇していたヴェネツィア共和国との関係を冷却化し、かえってヴェネツィア共和国と敵対していた諸都市(ジェノヴァ共和国やピサ共和国など)を優遇するなどして対外的に多くの敵を作るなど、失政を重ねた。 このため1203年7月、兄の息子で神聖ローマ帝国に亡命していたアレクシオス4世が、第4回十字軍を味方に引き込んで首都コンスタンティノポリスに侵攻してくると、皇位を奪われて追放された。 帝国を追放されたアレクシオス3世は、小アジア側の隣国であるルーム・セルジューク朝のスルタンであるカイホスロー1世のもとに亡命した。後に娘婿であるテオドロス1世ラスカリスがニカイア帝国を建国すると、娘婿のもとに亡命して庇護を受けた。ところがアレクシオス3世はテオドロスに皇位を要求して対立する。 しかし1211年、アンティオキアの攻防戦でカイホスロー1世がテオドロスの前に戦死すると、アレクシオスは後ろ盾を失ってテオドロスによって修道院に幽閉され、間もなく死去した。56歳没。
暴政から追放へ
最後まであがいた皇帝
家系
曽祖父:アレクシオス1世コムネノス - コムネノス朝初代皇帝
祖父:コンスタンティノス・アンゲロス
祖母:テオドラ・コムネナ
叔父(父の弟):ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカス - 尊厳公
叔父の王子(庶子):ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス - エピロス専制侯初代王
父:アンドロニコス・アンゲロス
母:エウフロシュネ(Euphrosyne Kastamonitissa)
后:エウフロシュネ(Euphrosyne Doukaina Kamatera)
王女:エイレーネー - アンドロニコス・コントステファノス妃、のちアレクシオス・パレオロゴス妃
王女:アンナ - イサキオス・コムネノス妃、のちテオドロス1世ラスカリス(コンスタンティノス・ラスカリス(=アンゲロス朝5代皇帝)弟、ニカイア帝国初代皇帝)妃
王女:エウドキア - ステファン・ネマニャ(セルビア王国ネマニッチ朝初代王)妃、のちムルツフロス(アンゲロス朝4代皇帝、アレクシオス5世を自称)妃
関連項目
蒼き狼と白き牝鹿シリーズ(光栄)
表
話
編
歴
東ローマ皇帝
テオドシウス朝
アルカディウス383-408
テオドシウス2世408-450
マルキアヌス450-457
レオ朝
レオ1世457-474
レオ2世474
ゼノン474-491
バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518
ユスティニアヌス朝
ユスティヌス1世518-527
ユスティニアヌス1世527-565
ユスティヌス2世565-578
ティベリウス2世578-582
マウリキウス582-602
フォカス602-610
ヘラクレイオス朝
ヘラクレイオス610-641
コンスタンティノス3世641