アレクサンドロス
Αλ?ξανδρο?
Aleksandros
東ローマ皇帝
ハギア・ソフィア大聖堂内部にある、アレクサンドロスのモザイク肖像画
在位912年5月11日- 913年6月6日
別号共同皇帝(876年 - 912年)
全名アレクサンドロス
出生870年
東ローマ帝国、コンスタンティノポリス
死去913年6月6日
東ローマ帝国、コンスタンティノポリス
配偶者なし
王朝マケドニア王朝
父親バシレイオス1世
母親エウドキア・インゲリナ
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アレクサンドロス(ギリシア語:Αλ?ξανδρο? (Aleksandros), 870年頃 - 913年6月6日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の第3代皇帝(在位:912年5月11日 - 913年)。同王朝初代皇帝バシレイオス1世の子で、同・第2代皇帝レオーン6世の弟。 兄のレオーン6世やステファノス(コンスタンティノポリス総主教)とは違い、バシレイオス1世とエウドキア・インゲリナとの間に生まれたことが確実な唯一の男子。名前はバシレイオス1世がテマ・マケドニア出身だったため(古代マケドニア王国とは地域がずれるが)アレクサンドロス3世にちなんで命名されたと考えられる。 長兄のコンスタンティノスが没したあと、879年に共同皇帝となった。883年から886年にかけてレオーンが後継者の地位を剥奪されていた時期には、アレクサンドロスがバシレイオス1世の後継者とされていたと考えられる。おそらくこの時期に結婚したが、終生子供はいなかった。 レオーン6世の治世の間、共同皇帝としてなんら実務に関与することなく過ごす。兄との仲はあまり良いとは言えず、聖モキオス教会でレオーン6世の暗殺未遂事件が起きた時には、関与を疑われたこともある。しかしそれでも、912年にレオーン6世はまだ幼少であった息子のコンスタンティノス7世の後見を委ねて没した。 権力を握ったアレクサンドロスは、レオーン6世の政策の多くを変更し、こと兄嫁で皇太后のゾエ・カルボノプシナに敵対的であった。まず総主教のエウテュミオス 913年6月6日、在位わずか1年にして病死した。彼は後見していたコンスタンティノス7世によって後継されるが、なお幼児だったため、ニコラオス1世ミュスティコスやステファノス・カロマリアス
生涯
共治帝時代
正帝時代
表
話
編
歴
東ローマ皇帝
テオドシウス朝
アルカディウス383-408
テオドシウス2世408-450
マルキアヌス450-457
レオ朝
レオ1世457-474
レオ2世474
ゼノン474-491
バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518
ユスティニアヌス朝
ユスティヌス1世518-527
ユスティニアヌス1世527-565
ユスティヌス2世565-578
ティベリウス2世578-582
マウリキウス582-602
フォカス602-610
ヘラクレイオス朝
ヘラクレイオス610-641
コンスタンティノス3世641
ヘラクロナス641
コンスタンス2世641-668
コンスタンティノス4世668-685
ユスティニアノス2世685-694
レオンティオス695-698
ティベリオス3世698-705
ユスティニアノス2世(復位)705-711 | 断絶 | フィリピコス・バルダネス711-713
アナスタシオス2世713-715
テオドシオス3世715-717
イサウリア朝
レオーン3世717-741
コンスタンティノス5世741-775
レオーン4世775-780
コンスタンティノス6世780-797
エイレーネー797-802
ニケフォロス朝
ニケフォロス1世802-811
スタウラキオス811
ミカエル1世ランガベ811-813
レオーン5世813-820
アモリア朝
ミカエル2世820-829
テオフィロス829-842
ミカエル3世842-867
マケドニア朝
バシレイオス1世867-886
レオーン6世886-912
アレクサンドロス912-913
コンスタンティノス7世913-959
ロマノス1世レカペノス920-944
ロマノス2世959-963